「神話叢書」の記念すべき第一巻 勝又泰洋 / 京都大学非常勤講師・神話学 週刊読書人2022年5月20日号 性愛と暴力の神話学 著 者:木村武史(編著) 出版社:晶文社 ISBN13:978-4-7949-7301-6 わが国における一般向けの出版物に話を限ると、「神話」にかんする書物は数多存在するものの、「神話学」にかんするそれは極端に少ないように思われる。別の言い方をすると、神話それ自体(原典版であれ再話版であれ)を紹介することへの熱意は強い一方で、学問的分析を例示する試みは避けられてきた傾向にある。インド神話のインドラ、ローマ神話のユピテル、北欧神話のオーディンの名前は知っていても、これらの神格の相対的役割について壮大な議論を展開してみせたフランスのG・デュメジルの名前を聞いたことがある人はどれくらいいるだろうか。日本で神話学が誕生した一八九九年(高山樗牛が「古事記神代巻の神話及歴史」という題名の専門的論文を発表した年)からいまや一〇〇年以上が経過していることを考えると、この状況にはいくらか寂しさを感じざるをえない。 その意味で、本書が記念すべき第一巻となる「神話叢書」の登場は心より祝福したい出来事である。本書の「あとがき」によると、ちょうど二年ほど前から「学術(専門知)を社会へ」というスローガンのもと、この叢書の発刊にかかわる話し合いが始められていたとのことだ。すでに将来の計画(論集および単著の出版)も立てられているようで、その展開に強く期待したい。「神話」ではなく「神話学」の面白さを社会に伝える。「神話叢書」の本格的始動によって、その大きな一歩が踏み出されたと言っても過言ではない。 さて、本書がテーマとするのは、書名にあるとおり、「性愛と暴力」である。いささか不穏当だが、編者の木村が「序章」で述べているとおり、「神話が人間の本質に関わる物語である」として、「性愛と暴力ほど人間が人間である所以に深く関わるテーマはない」ため、「性愛と暴力」を取り上げるのは、神話のまさに核心部分に飛び込むきわめて重要な作業なのである。また、これも本書の各所で言及されていることだが、精神分析学者であると同時に神話学者でもあったS・フロイトが、「エロスとタナトス」(ギリシア語で前者は「欲」、後者は「死」を意味する)を相即不離の一組の概念として捉えたことも合わせて思い起こすべきだろう。 ただ、すぐに付け加えなければならないのが、本書が、記述内容の方向性について明確な統一性を有しているわけではない、ということだ。各執筆者が自身の認める「神話」を取り上げており、その分析の視点もまことに多様である。とはいえこれは、そもそも本書が「論集」であるがゆえ、仕方のないことだろう(世界の「神話」を体系的に論じることの難しさを同時に感じてしまう)。このことを前提として、以下、評者がとくに興味を持った、松村一男による「メドゥーサはなぜペルセウスに殺されねばならなかったのか?」(第七章)の読みどころを示すことで、本書の特色をつかんでいただきたいと思う。 松村は、ギリシア神話のなかでも特によく知られている、英雄ペルセウスによる怪物メドゥーサ退治の物語を論述の対象としているわけだが、目標とされているのは、この物語の発生の理由を明らかにすることである。この問いについて松村は、相手を石化させる力を持ついわゆる「メドゥーサの首」が以前から認知されていて、この首が出てきた経緯を説明するために後付けで件の物語が作られた、と推理する。注目すべきは、松村の結論の当否ではなく、松村が採るアプローチ法である。というのも、特定の神話物語が「なぜ作られたのか」と問うのは、神話学における基本的作業の一つであるからだ。神話が人間によって作られたものである以上、そこには必ず何らかの理由が存在するはずで、神話学者は、この点に強い関心を抱いている。ペルセウスの化物退治の「なぜ」を探る松村の論考は、そのきわめてわかりやすいケース・スタディとなっている。そのため、読者は、松村の説明を追いかけるうちに、いつの間にか神話学の営みに参画することになるのである。 本書を構成する一一の章は、いずれも、優れた神話学の実践と評価できる。各章を丁寧に読み進めることで、ぜひ神話学の楽しさを肌で感じ取ってほしい。(かつまた・やすひろ=京都大学非常勤講師・神話学)★きむら・たけし=筑波大学人文社会系教授・宗教学・アメリカ研究。著書に『北米先住民族の宗教と神話の世界』など。一九六二年生。