ピクチャレスク美学の多面性と先進性を解き明かす 吉川朗子 / 神戸市外国語大学教授・英文学 週刊読書人2022年5月20日号 ピクチャレスクとイギリス近代 著 者:今村隆男 出版社:音羽書房鶴見書店 ISBN13:978-4-7553-0426-2 PicturesqueはBeauty, Sublimeと並ぶ美学概念であるが、後者二つが「美」「崇高」と日本語訳されるのに対し、前者は「ピクチャレスク」とカタカナ表記される。「絵画的」にとどまらない多面的、重層的な意味を内包するからであるが、今村隆男氏の『ピクチャレスクとイギリス近代』は、この言葉の根幹の意味に立ち返り、ポール・サンドゥビーによる二枚の水彩風景画の分析を序章に据えている。「前景・中景・遠景」という構図、「サイドスクリーンとしての樹木の配置」「低い視点」など、ピクチャレスクに典型的な形式的特徴を確認した後、これらの絵が、近代産業の興隆、ナショナリズムの高揚、森林伐採、生態学的関心、地域共同体への眼差しなど、産業・農業革命やフランス革命などを通して急速に変化していくイギリス近代の社会を反映していることに、注目させるのだ。第一章でそうした様々な論点を整理した後、本書は、社会の鏡としてのピクチャレスク風景の変容の諸相を、観光、庭園、建築という三つの側面から分析している。 ピクチャレスクはイギリス近代を理解するうえで重要だが複雑な概念で、学生に説明する際にも苦労する。つい、ローランドソンによる戯画やワーズワスやオースティンによる批判的な見解を引いて、否定的なニュアンスで紹介し、これと対照させてロマン主義的感受性の新しさを強調しがちであるが、実はそんな単純ではない。ワーズワスの『湖水地方案内』を読めば、ウィリアム・ギルピンやユーヴデイル・プライスなどの描写との類似性は明らかであり、ワーズワスはちっとも新しくないと気づかされる。しかし本著を読んで改めて思うのは、ワーズワスが古臭いピクチャレスク美学を捨てきれていないのではなく、ピクチャレスク美学にはロマン主義的な感受性を生み出す土壌があったということだ。例えば本書は、廃墟描写において、人工の建造物が時間の経過によって自然物と同化していくというプロセスにギルピンが注目している点を挙げ、この視点がプライスを経てワーズワスに引き継がれ、そこから現代の環境保全的自然観へ発展していったと指摘している(第二章)。 プライスの建築論がワーズワスのコテージ論に与えた影響については、とりわけ詳述されている。建築資材には各地域のものを使うべきという主張、天候や風土が建物に及ぼす役割や、多様な人々の生活の場として時間をかけて作り上げられた村落共同体への注目など、ピクチャレスク美学には、ロマン主義的感性を経由して、イギリスらしさの議論やヴァナキュラー志向、環境思想にまで繫がる先進性が内包されていたことが、丁寧に論じられている(第四章)。 ピクチャレスク的自然観というと、ノスタルジックに理想風景を描き、悲惨な現実を隠蔽し、伝統的な階層社会の維持を望む保守的傾向があると批判されがちだ。しかし、各理論家の支持基盤によって政治的立場は異なり、その主張が革新性を示すと見做されることもあったと本書は強調する。例えばケイパビリティ・ブラウンの「改良」に対するリチャード・ペイン・ナイトによる批判を巡っては、これを革命以前の旧支配体制の批判(革新性を示す)と取る者、逆に、王制を倒した革命勢力の批判(保守性を示す)と取る者があり、論争に発展した。著者は、結局のところ両陣営の主張には決定的な違いは見られず、柔和な自然を好むか粗野な自然を好むかという違いだけだろうと結論づけつつも、「抑圧に反する『自然のダイナミックな力』」を称揚する側面に、ナイトの革新性を認めている(第三章)。 コテージ建築については、ピクチャレスク美学が風景装飾として注目したコテージが、社会改革とナショナリズムの流れのなかで次第に変容し、装飾性と有用性を兼ね備えたコテージが生み出されていく過程を丁寧に辿り、貧困層の住居を美しく整えることで住民の幸福と平等社会の実現を目指そうという動きもあったと指摘する。ピクチャレスクの実践家にも社会改革意識、共和主義的考えを持つ者がいたことを示しており、興味深い(第四章)。 終章では、当初は特定の風景を切り取って絵のように鑑賞する体験を意味したピクチャレスクは、やがて自然のなかを歩き回り、個別の事象を五感で感じ取り、時間の流れのなかでの対象の変化を捉えることを勧めるようになっていったとまとめている。そしてピクチャレスクは風景を眺める対象からそこに住まう環境として捉える方向に踏み出した、と結論付けている。美学的な意味でのピクチャレスクが注目された時期は短かったが、その自然観はロマン主義的感性のなかに発展的に解消され、現在の環境意識にまで繫がっていることを、旅行書、庭園論、詩、農業書、建築書など驚くほど多岐にわたる文献の詳細な検討を通じて、説得的に伝えてくる一冊である。(よしかわ・さえこ=神戸市外国語大学教授・英文学)★いまむら・たかお=和歌山大学教授・イギリス文学・文化。著書に『地誌から抒情へ イギリス・ロマン主義の源流をたどる』(共著)、『英文学の地平 テクスト・人間・文化』(共著)など。