世界全体の似姿として立ち現れる小宇宙 栗原俊秀 / 翻訳者 週刊読書人2022年5月20日号 ミクロコスミ 著 者:クラウディオ・マグリス 出版社:共和国 ISBN13:978-4-907986-55-1 かつて須賀敦子はナタリア・ギンズブルグをめぐる論稿のなかで、著者の生前に「作品集がモンダドーリ社のメリディアーニ版」に組まれたことを指して、「作家として破格の名誉を受けた」と形容した。存命中の作家のなかで、ギンズブルグと同じく「破格の名誉」に浴しているのが、本書『ミクロコスミ』の著者、クラウディオ・マグリスである。その「メリディアーニ版」の解説によれば、『ミクロコスミ』は二〇一八年末の時点で、世界の二十四言語に翻訳されているという。東アジアにかぎって言えば、二〇〇一年に中国語訳、二〇一七年に韓国語訳が刊行されている。自称「翻訳大国」の日本での出版が、原書の発表から四半世紀が過ぎた二〇二二年になったことについては、イタリアの諺にならい「遅くともないよりはまし(meglio tardi che mai)」とでも評すべきか。加えて、訳者や版元が強調するように、『ミクロコスミ』はマグリスの訳書のなかで、イタリア語から日本語に訳された初の書籍となる。重訳という営みをひとしなみに否定する必要はないだろうし、著者と同じ「ゲルマニスト」である池内紀が、中・東欧を経めぐる「大河」小説『ドナウ』の訳者として適任だったことも事実である。それでも、「境界のコスモポリス」、「郷愁の港湾都市」たるトリエステ周辺を舞台にした本作は、やはりイタリア語から訳されてしかるべき作品だった。なぜなら、ある著書のなかでマグリス自身が明らかにしているとおり、彼の「概念的・哲学的なバッグボーンの大部分がドイツ的である」のが事実だとしても、それらの知を「言語に置き換え、形を与える」際の手法、要するに、「世界を見つめ、物語る」ときのスタイルは、「揺るぎようもなくイタリア的」だからである。「思考するときはドイツ的カテゴリーに従いつつ、生き、見つめ、聞き、欲し、語るにあたってはイタリア語を用いる」のが、クラウディオ・マグリスという作家である。 さて、作品の内容だが、これはとても、小さな書評欄で要約できるような代物ではない。「要約」という作業を受けつけない小説なのだ。素直に冒頭から読みはじめると、トリエステの老舗カフェ「サンマルコ」について語っているようなのだが、常連客の与太話やら、過去のオーナーにまつわるエピソードやら、トリエステの作家(ジョルジョ・ヴォゲーラ)をめぐる文学的な考察やらが、脈絡もなしに延々と書き連ねてあるばかりで、自分はいったいなにを読まされているのかという気分になってくる。この、旅先で迷子になったような感覚に拍車をかけるのが、視点人物の不確かさである。一読したところ三人称小説のようでもあるのだが、注意深く読み進めるうち、「これは著者本人の視点なのか?」と感じさせる記述が目に入ってくる。前述の『ドナウ』に続き、マグリスは今作でもまた、「〈私〉を隠蔽した一人称」という、じつにもってまわった語り口を採用している。本人の言葉を借りるなら、「なじみの匿名性」のなかに身を隠すことで、「私」を厄介払いしようとするのである。 興味深いのは、カフェの描写や、ジョルジョ・ヴォゲーラ(あるいはその叔父のジュゼッペ・ファーノ)の生と作品にかんする考察が、そのままマグリス文学の隠喩として読めるという点である。カフェ・サンマルコでは、「声が上がり、混ざり、消えて」いき、どこを切り取っても同じような、脈絡を欠いた合唱が響いているというのだが、これなどまさしく、『ミクロコスミ』という小説の特徴そのものである。あるいは、ジュゼッペ・ファーノの回想録を評したくだり、「[ファーノは]自らについてほとんど語らなかったが、他人については多いに語った[…]〈私〉と名乗る語り部は、他人と他人を結ぶ糸にすぎない」との一節は、マグリスの創作論、「自己の経験について物語る唯一の方法は、他者について語ることである」という信条にぴたりと重なる。 マグリスの手稿を調べた研究者によると、本作のタイトル案には「ミクロコスミ(小宇宙)」のほかに、「フラクタル」という候補もあったらしい。フラクタルは数学用語で、「どんなに微小な部分をとっても全体に相似している図形」を指す。『ミクロコスミ』という小説においては、各ページ、各行が、作品全体の似姿となっており、カフェや、公園や、教会といった小さな空間(小宇宙)が、世界全体の似姿として立ち現れる。そこで「私」は拡散し、客体化され、「世界のささめきが反響する貝殻」に変貌する。特異であり、晦渋の気味もある作品だが、カフェの喧騒に耳を傾けるようにして読んでいけば、小説にひたって過ごす時間が、いつしか愛おしくなってくる。(二宮大輔訳)(くりはら・としひで=翻訳者)★クラウディオ・マグリス=作家・批評家・翻訳家・研究者。イタリア・トリエステ生まれ。オーストリア国家賞、スペイン芸術文学勲章、フランツ・カフカ賞など受賞・受勲多数。本書は、イタリア文学最高の賞とされるストレーガ賞受賞作。一九三九年生。