書評キャンパス―大学生がススメる本― 今野正悦 / 東京大学法学部3年 週刊読書人2022年5月27日号 だれのための仕事 著 者:鷲田清一 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-292087-2 〈暇〉になったら、あんなことやこんなことを。けれどもいざスケジュール帳が真っ白になってみると、不安と焦燥感に駆られる。余白を埋めなければいけないような気がする。将来の「ためになる」ことをしなければいけないような気がする。誰にそんなこと言われたの?と聞かれても答えられない。答えられるはずもない。誰に言われるでもなく、そう思ってしまう。その心性こそが、マックス・ヴェーバーの言う「資本主義の〈精神〉」であり、本書において著者が問題提起を試みる「前のめりの時間感覚」である。 本書の前半、第1章と第2章において著者は、資本主義社会を充たす様々なエートスを細かに分析する。人生を線として捉え、「現在」を常に「未来」との関係で意味づける〈前(pro)のめりな時間意識〉についての考察は、真木悠介『時間の比較社会学』(2003、岩波現代文庫)にも通ずるものがある。〈生産性〉の論理に凝縮される〈インダストリー(勤勉・勤労)〉の心性が、現代社会を生きる個人によって無意識に内面化されているとの指摘にも、頷かずにはいられない。そこでは、「生を築こうとして、生を使い果たして」(セネカ『人生の短さについて』光文社古典新訳文庫)しまう人間の姿が、著者の仔細な描写を通して、等身大で眼前に立ち現れる。 しかし、〈近代的時間〉によって貫かれないということは、これによって動く資本主義社会の中で孤独を経験するということでもある。社会的な「目的」や「手段」から解放され、数多の可能性に晒されたとき、人が心細さを感じるのはある種の必然であろう。少なくとも私は、小心者の私は、虚しいかな、資本主義的「生き方」に批判的なまなざしを向けつつも、そこから完全に逸脱する勇気を持ち合わせていない。 著者は私のような読者を見捨てはしない。本書の後半、第3章と第4章、そして補章は、現代において「そのようにしか生きられない」読者への処方箋である。私たちが半ば反射的に切り分ける〈労働/仕事〉と〈余暇/遊び〉という二つの概念は、本当に相容れないものなのか。著者によれば、答えは「否」である。その上で著者は、現代社会においては、〈仕事〉、そしてなんと〈遊び〉までもが、目的―手段という歯車によって機械的に動かされ、「ときめき」を失いつつあると指摘する。そしてその「ときめき」を取り戻す糸口は、仕事それ自体が楽しいという「内的な満足」を取り戻す契機は、未来における「有用性utility」にはなく、寧ろ現在を生きる他者との関わり合いにこそ見出せるであろうとの期待を、読者の前にちらつかせるのだ。 補章において著者は、〈意味〉を求めずにはいられない、《意味の病》とでも称すべき私たちのアティチュードに言及する。何のために生きるのかという問いに対する、何の意味もない、ただそこに在るだけという答えは、私たちを満足させるには程遠い。絶え間ない自らの生に対する問いと応答と修正。それこそが、〈わたし〉の生をぎっしりと充たしてくれるものなのかもしれない。自らの生に向けるまなざしの更新に、是非本書を手にとって頂きたい。 ★こんの・まさえ=東京大学法学部3年。書評サークル、k-pop カバーダンスサークルに所属。家で出来ることの全てが好き。上橋菜穂子作品に魅了されて以来、すっかり本の虜に。