芸術教育学を考える試金石 アライ=ヒロユキ / 美術・文化社会批評 週刊読書人2022年5月27日号 環境が芸術になるとき 肌理の芸術論 著 者:髙橋憲人 出版社:春秋社 ISBN13:978-4-393-33388-4 芸術論は認識哲学、あるいは表現の様式論としてしばしば語られる。本書は前者に近いが、観念的な哲学でなく一種の物質論から出発しているところがユニークな点だ。 この物質とは漆だ。著者の高橋憲人は芸術教育学の研究者だが、漆器の研究も長年しており、津軽漆連の代表も務めている。 漆は一口に繊細の言葉で言い尽くせない複雑さを持つ。著者はその一端を高校生の時に知る。朱漆は精製漆と朱の比重が異なるので、刷毛で塗っていく時間差や手わざが微妙に構成比に影響を与え、色調の変化を生む。そのあらわれの肌理に対し、後に友人が「touchが見える」と形容したことが彼の問題意識の根幹をかたちづくった。また、漆工芸には偶然性や相互作用による非客体性が内包されてもいる。その検証が本書の底流をなし、一種の自伝の趣もある。 本書は三部構成になっている。第I部がランドスケープ論と視覚認識論、博物学の考察が中心。近現代文明が視覚優越の性格を持ち、それが自然なり他者を客体化すると語られる。この主客二元論は、漆を契機に筆者が考察を深めたどり着いた「織地性」(テクスティリティ)と真逆のものである。 第Ⅱ部はその例証に当てられているが、身体論的感触なり認識は視覚ではなく聴覚に関わる概念で展開される。具体的にはR・マリー・シェーファーのサウンドスケープ論だ。これは美術作家の鈴木ヒラクの作品考察、著者との対話も含め、本書の核心をなす。 第Ⅲ部はその実証例が柱で、著者が大学で学生に行ったワークショップが紹介される。地域で芸術を実践するアートプロジェクト論にもからめつつ、芸術の専門性と一般性の問題が掘り下げられる。 筆者としては、芸術教育における専門性と一般性の問題、それにサウンドスケープ論が特に興味を惹いた。市民の芸術性の啓発による創造性の向上や世界認識の深化(豊かさの発見)は、必要なことでもあるだろうが、美術の専門家の立場からは価値観の押しつけにも感じられる。ありていに言えば、万人のための市民教育で求められる自律性の涵養と生活能力の取得に対し、芸術教育の核はやや異なるベクトルにあるだろうからだ。 鈴木ヒラクと著者の対話での、フロッタージュによる時の堆積、異物性の発見のくだりは重要だ。ベンヤミンのアレゴリー論、あるいはそこに見る重層性の論点を想起させる。美学的な認識の深化でもあり、ベンヤミンが提起したようにそこに回収されない社会的「視野」で世界を理解する契機にもつながるが、それが視覚でないことの意味も大きいだろう。 一九八〇年代に日本に紹介されたシェーファーのサウンドスケープ論は聴覚から世界を捉える試みで、視覚中心の文明の価値観を大きく覆した。それは視覚に現れない自然の脆弱性の掲示、世界との紐帯の発見、自然への感性の啓発を論じるものだった。 このサウンドスケープが自然に対する客体化の思想であると(文化)人類学者が批判したという。これに対し主客分離ではない相互関係のもとに人間と人間、あるいは対自然や外界を彼は捉えており、その実践例として彼のサウンド・エデュケーションを著者はあげる。このあたりの論述は興味深く読んだ。 ただ教育学に幾つか系統があるが、ジョン・デューイは教育は市民の民主主義的自覚と不可分だと説いた。これは参加型の芸術とも大きな関係があり、現代音楽ではポーリン・オリヴェロスの実践がある。「市民的不服従」について書いたH・D・ソローを愛したシェーファーの思想はそうした文脈でも読まれるべきだ。悟性や世界認識の向上に偏りがちな論点は議論が包含する可能性の展開としてはやや不十分で、それはアナーキストでもある現代音楽の大家、ジョン・ケージの引用からも感じる。 アートプロジェクトにも言及するなら、そうした政治性の問題は不可避だろう。世界潮流のなかで立ち後れている日本の現代美術が問われているゆえんだ。本書は議論としてよくまとまっているが、この点は指摘せざるを得なかった。(あらい・ひろゆき=美術・文化社会批評)★たかはし・けんと=弘前大学大学院地域社会研究科客員研究員・芸術教育学・生態芸術論。津軽漆連代表。一九九〇年生。