小説の部分を構成し、使役させられる女の存在 栗原悠 / 早稲田大学国際文学館助教・近代文学 週刊読書人2022年5月27日号 物語を紡ぐ女たち 自然主義小説の生成 著 者:中丸宣明 出版社:翰林書房 ISBN13:978-4-87737-463-1 明治新政府が断行した諸改革は、今日その評価はさまざまだが、社会の流動性を高め、それまで出自に運命づけられていた若者たちに自らの努力次第で地位上昇も望みうる、「立身出世」の夢を抱かせたという点は否定し難い。幕末に血洗島の一農民として生まれ、近代日本における資本主義の父と呼ばれるまでになった、昨年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一などはまさに「立身出世」の体現者と言えるだろう。しかし、そうしたある時代のエトスとは、渋沢のようなまばゆい存在のみによって成り立つわけではない。そうではなく、夢に敗れた人々、あるいはそんな栄達を夢想すらし得なかった人々がその影にいたことで初めて照らし出されてくるものだ。 中丸宣明『物語を紡ぐ女たち』は、自然主義小説の前史としてまずかような社会の暗がりを描いた一九世紀末から二〇世紀初めの文学に目を向ける。もはや「立身出世」への素朴な信仰が失われつつあるなか、悲惨小説は貧困にあえぐ人々の群のうちに娼婦の存在を見出し、家庭小説は資本主義社会のあるべき家庭像を示さんがために家のなかの婦人たちにスポットを当てた。こうした文壇の動向を小倉の地から「末流時代」と言い捨てた森鷗外に、島村抱月は今が「一曲転」にあると予言めいた反論を試みたが、本書はこの応酬の先にまもなく訪れる自然主義時代の旗手・田山花袋、島崎藤村、徳田秋聲の文業を見ていく。 ただ本書の第一部の視角は、それぞれの小説を抱月が期待していたような前史からの跳躍として積極的に評価を与えていくものではない。「蒲団」であれば、西欧の文学に対する強烈な意識を抱え、同時代の小説には飽き足らずにいた花袋が、その志を裏切るように書いてしまった新聞の三面記事じみた「堕落女学生」の小説として捉えられているし、藤村の「破戒」から「春」への足跡は、「ポスト立身出世主義の時代」における出発点としての故郷がもはや物語上の意味を失効したことを露呈させていくプロセスとして理解されている。いずれも一般には従来の文学を革新する自然主義のメルクマールとして読まれてきた小説テクストだが、ここでは前史との連続性にこそ目が向けられている点は注目に値しよう。一方、秋聲は先の二人とは異なり、日露戦前の試行が論の中心となっているものの、こちらについても家庭小説などのモチーフのストレートな帰結として「雲のゆくえ」が見据えられている。花袋、藤村論と秋聲論の時間的な差異は小さくないはずだが、同時代のテクストが多く動員された各論の見取り図自体は説得力を持つ。 次いで第二部は議論の対象が後代へとスライドし、花袋「生」および「妻」、藤村「家」、秋聲「足迹」、「黴」、「爛」といった三人の代表作が取り上げられる。だが、ここでも各論が重きを置くのはそれぞれのテクストにおける従来の小説との関係の強さだ。「生」は、西欧の小説から目を背けた結果としての尾崎紅葉「多情多恨」のような風俗小説への「後ずさり」的前進とされ、それを踏まえた「妻」は、キリスト教に発するロマンティック・ラブと明確に距離を取るポーズとして解される。また「家」は、「不如帰」に象徴される時代的文脈との攻防が小説を駆動させている。一方、秋聲の諸テクストはいずれも花袋、藤村式にメタな視点から時代の物語を批評していくことはない。ただし、それらとは別に「古典説話の近代的再生」によってやはり同時代の対象化を企図していたとされ、深刻小説に出発した秋聲独自の方法論が看て取られる。 さて、本書においてこうした各論の問題設定を紐帯してきたのがそれぞれの小説に描かれた女性たちなのだが、一読して本書の『物語を紡ぐ女たち』というタイトルを改めて見ると、周到な言葉選びだったと思わされる。「紡ぐ女」とは、一見テクストに働きかける主体のようにも読めるが、むしろ糸のように小説の部分を構成し、それに使役させられる存在としてあるのだ。そして言うまでもなくその役割とは、「立身出世」の失効によって新たな文学を模索していった男性小説家たちの手によって与えられたものである(付言するならば、その多くが小説家小説の形式を採っていたことも無視すべきではないだろう)。ここに形を変えながらも時代を経てなお命脈を保った「立身出世」というエトスの問題系がくっきりと浮かび上がってくる。 一方、幅のある議論のもとでは先に指摘した花袋、藤村と秋聲とを分かつ壁のような、全体を見渡した際の綻びも同時に気になった。花袋論はいずれも書き下ろし、第二部の藤村論も二〇二一年の論稿を初出とするのに対し、秋聲論は一九八〇、九〇年代の論が元となっているが、この時間の隔たりに小説自体が備える差異と併せて論者自身の視差も包含されてしまっていたのではないか。もっとも、それは本というフレームに嵌めたがゆえに見出されたものでもあろう。むしろ一九世紀的な論点と二〇世紀の小説の仕切りを取り払い、そこに結節点を求めていく視角こそ本書のユニークな読みどころと言える。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・近代文学)★なかまる・のぶあき=法政大学文学部日本文学科教授。共編著に『政治小説集二 新日本古典文学大系 明治編17』『好古趣味の歴史 江戸東京からたどる』など。一九五五年生。