史家ギンズブルグの方法論を凝縮 倉科岳志 / 京都産業大学教授・近現代イタリア思想史 週刊読書人2022年6月3日号 恥のきずな 新しい文献学のために 著 者:カルロ・ギンズブルグ 出版社:みすず書房 ISBN13:978-4-622-09057-1 史家ギンズブルグの方法論が凝縮された本である。それはとりもなおさず、かれの思想家としての相貌を描いているということでもある。構成は巧妙である。第一部(第一章)はギンズブルグの知的遍歴を語り、第二部(第二~六章)は文字以外の対象を考察し、第三部(第七~十章)は再び文字へと立ちかえり徐々に書き手へと接近し、第四部は思想ならびにその主体の様態を論じている。第一部の遍歴が第二部から第四部にかけて再度繰り返され、そこに「新しい」文献学の意義が現れてくる仕掛けである。 第一章ではギンズブルグの読解と歴史的業績とを貫く問題意識が開陳されている。第二章ではテクストとイメージが論じられ、コンテクストから分離・抽象化されたテクストは新たなコンテクストに適応させ、元のコンテクストを修復する必要があるとされる。バスティアーニの絵をめぐる第三章では、絵画を言葉によってどうにか語る意義が示される。第四章ではフランシス・ゴールトンの肖像写真研究が取り上げられ、コンテクストの再構成における規範と逸脱という問題が考察されている。第五章では、ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガとジョン・デヴィッド・リースのテクストをめぐって、周縁に追いやられた言語を国際語によって救い出す可能性が指摘される。オンライン・カタログを論じた第六章では、コンテクストに依存している検索ワードをあえて駆使し偶然に事実データを引き出す手法が提示される。第七章では、『イーリアス』における「恥」が個、種、類、言語共同体、政治共同体、職業共同体といった様々な集合体における紐帯との関連で構成される事実に注意が喚起される。第八章では、アウグスティヌスの聖書解釈が論ぜられ、文体のなかにこそ語り手の意図が現れ、そしてその文体は歴史上不断に変化し続ける事実に光が当てられる。第九章では、イエズス会の宣伝戦略を題材に、過去のあるテクストが時代の変遷とともに良くも悪くも再解釈されることが指摘される。モンテーニュを論じた第十章では内容、参照指示、著者の属性が考慮された解釈が提示される。第十一章では、E・デ・マルティーノへのG・ジェンティーレの影響が指摘され、呪術が後代の者たちにとってのみ存在するとしたデ・マルティーノの立場が強調される。第十二章ではデ・マルティーノが、世界を失う恐怖と世界の中に失われる恐怖という表裏一体の二つの恐怖を明らかにしたことがかれの癲癇との関連で論じられる。第十三章では、P・レーヴィの語るアウシュビッツの「抑圧者に協力する特権的な被抑圧者」が俎上に載せられ、被抑圧者の心の荒廃に対する態度が検討される。 最大の読みどころは第二章である。ギンズブルグは、ヴェロネーゼの「カナの結婚」のファクシミリ版が、オリジナルの飾られていた元ベネディクト修道会食堂に置かれた事実に注目し、ファクシミリ版がオリジナルのステイタスを脅かし、それによってオリジナリティというものが付与されたり除去されたりするとの考えへ至ると警告している。ただ、この事実はオリジナルを修道院に戻せない現状を鑑みれば、美術館で鑑賞され解釈されるだけでないこの絵の宗教的機能を再生させ、修道士たちの心に迫るきっかけを創出しているとも言えよう。この例を出発点に、ギンズブルグは目で見ることのできないテクストと見ることのできるイメージという二分法でそれぞれの特徴を見事に析出している。ただし、それでもなお、いずれもが人間による表現である以上声や手の震えなど一度個別具体的なコンテクストで表現された後には、程度の差こそあれ抽象化は免れない。この抽象性を極小化する努力をし、歴史的想像力を働かせ一回的な表現に近づき、過去の人間たちをより理解できるようにすること、これこそが文献学の役割であると思う。本書の各論文にはその手法と実践が具体的かつ鮮やかに描かれており、示唆するところは大きい。(上村忠男編訳)(くらしな・たけし=京都産業大学教授・近現代イタリア思想史)★カルロ・ギンズブルグ=歴史家・ピサ高等師範学校教授。著書に『神話・寓意・徴候』『裁判官と歴史家』など。一九三九年生。