一九九五年の事件が残した重要な課題 宮崎智之 / フリーライター 週刊読書人2022年6月10日号 曼陀羅華X 著 者:古川日出男 出版社:新潮社 ISBN13:978-4-10-306079-6 古川日出男の新作長編『曼陀羅華X』は、その内容を要約するのに躊躇う作品だ。「新潮」に連載された小説を解体と再構成し、改稿した本作は(まるで作中内に登場する小説『666FM』のようである)、重層的で論点が複数ある。プロットのように要約してディティールを削ると、読後に覚える小説の強みがまったく表現できていないように思えてくる。 とはいえ、作中の登場人物は決して多くはない。というか、ほとんどの登場人物に名前が与えられていない。また、四四八ページの大作にもかかわらず、登場人物たちの言葉や行動に駆動されて、あっという間に読める作品である。躊躇する気持ちを振り払って内容を述べるなら、一九九五年、地下鉄の三つの路線の五本の電車に化学兵器を撒き、無差別の大量殺人を行ったカルト教団に、ある作家が拉致される。車のトランクに入れられ、教祖の説法を長時間、聴かされる。教団施設に連れて行かれた作家は、教団のために「予言書」を書かされる。その予言は無署名の書として教団のものとなる。作家は教団内でそれなりの地位を得て、それなりの自由を保証されるが、産まれたばかりの教祖の息子を拉致し、姿をくらましながら、ガールフレンド(戸籍上の妻)と協力をして、息子を育てる。 「言葉」の問題がある。当初、予言書は教団への強制捜査などの動向を踏まえ、後追いで綴られていった。しかし、ある時点からそれが反転する。予言書の言葉が先行していく。それは厳密には予言とは呼べない。なぜなら、予言を「成就」させるために、教団側が行動を起こしているに過ぎないからである。そのための実行マニュアルとも言える裏の予言書まで、作家は用意する。そしてその通りに信者が「殉死」し、予言書を記したのが作家であるという事実を知る者はいなくなる。作家が嬰児を拉致した事実も、それによってすぐ明らかになることはない。言葉が作家を救った。 しかし、話はそう単純ではない。当然、同作は実際に起こった重大事件を下敷きにしているのだが、作家は別のその先を記しているからだ(先の「殉死」もそのひとつである)。事態は、実際に起こった重大事件とは違う道筋を歩み、教祖も奪還される。架空の未来に待ち受けているのは予言を成就させようとするものと、それを阻止しようとするものとの対立である。「初代も二代めも同じお方」と記された予言書どおり二代めを産んだ若き女性は、御母様として教祖と同等か、それ以上の実権を握る。予言書を記した作家に対しシンパシーを抱き、「その先」を忠実に成就させようと実行に移していくのである。事態は国家を巻き込んで混沌の様相を呈していく。 この作中で一番、不可解で意図が読めないのが、予言書を記した作家本人である。作家は、教団から脱出後に書いた小説『らっぱの人』の警句(エピグラム)に、「お前の運命をデザインしろ。」と記した。しかし、本当に人間は自分の運命をデザインすることなどできるのであろうか、と評者は思う。物語が後半に差し掛かる場面で、ある女性が作家に「宗教ってやっぱり、ちょっと気味が悪いじゃないですか? あの、本当に……熱心に? 信じている人って」と問う。作家は宗教を恐れているのではなくて、過剰さに敏感になっているのだと説く。女性は、過剰さに惹かれ、吸い寄せられる人々をやはり気味悪がり、「もしかしたら自分はそうなれないからかも」と自問する。評者は、「殉死」というシナリオが記された予言書を「最高です」と言った、作家を拉致した首謀者の信者を思い出す。彼は予言を成就させるために仁王立ちし、当局からの弾を七発か八発も浴びたという。いったいなにが「最高」だったのだろうかと考える。 事実を下敷きにしたこの壮大なフィクションは、二〇〇四年で幕を閉じる。だが、現在は二〇二二年で、まだまだ世界は続いていくだろう。一九九五年に起きたあの事件の傷は残り、課題はいまだ解決されていない。(みやざき・ともゆき=フリーライター)★ふるかわ・ひでお=作家。著書に『アラビアの夜の種族』(日本推理作家協会賞、日本SF大賞)『LOVE』(三島由紀夫賞)『女たち三百人の裏切りの書』(野間文芸新人賞、読売文学賞)など。一九六六年生。