何かが瓦解した先で、自分たちの場所を再発見しようとする鋭意 『バナナの木殺し』/『プールサイド』(台湾文学ブックカフェ2・3) 長瀬海 / 書評家 週刊読書人2022年6月10日号 バナナの木殺し 台湾文学ブックカフェ2 中篇小説集 著 者:呉佩珍・白水紀子・山口守(編) 出版社:作品社 ISBN13:978-4-86182-878-2 ======= プールサイド 台湾文学ブックカフェ3 短篇小説集 著 者:呉佩珍・白水紀子・山口守(編) 出版社:作品社 ISBN13:978-4-86182-879-9 「そもそも、台湾で「台湾文学」という名称をつけた公的研究機関ができたのは、二〇〇〇年前後以降だ。それ以前の国民党政権下では、台湾の文学は「中国文学の一支流」という扱いを受けてきた。」(黄碧君「台湾文学シーンのいま」『文藝2022年春号』より) 国家台湾文学研究館が設立されたのは二〇〇三年。ここで言われているように、台湾文学が中国文学の従属状態から脱したのは比較的最近のことだ。だが、この二十年という月日の内で、台湾文学は独自の進化を遂げ、きらめく姿に羽化をした。前掲の論考のなかで黄碧君は台湾の現代文学においてアイデンティティの探索がブームとなっていることに触れ、「権力者から押し付けられた「彼らの」歴史ではなく、「自分たちの」歴史や物語を知りたい、読みたいという読者の渇望が、ブームに反映されている」と指摘しているが、呉明益や甘耀明など現在の活況する台湾文学の翻訳シーンが届けてくれる素晴らしい作家たちの作品にはまさに、土地の記憶、抑圧からの解放、といった「自分たちの」歴史や物語が大切に描かれていた。 だからこそ、日本の読者はそんな台湾文学の豊穣さにもっと触れたいと思うわけだが、私たちのそうした願望を満たしてくれるアンソロジーが刊行された。第一巻『蝶のしるし』は本誌二〇二二年三月四日号に長谷川啓氏の重厚な書評が掲載されているのでそちらを参照してほしい。ここでは第二巻と第三巻を読んでいこう。 第二巻には三つの中編小説が収録されている。邱常婷「バナナの木殺し」は、実に奇怪な物語だ。大学生の「僕」の車に品琴という女性がぶつかってきた。彼女のケアをしながら「僕」は品琴が語る生い立ちの物語にのめり込む。品琴は台湾南部のバナナ畑に囲まれた土地で育った。奇妙なのは敷地には立ち入り禁止の空間があること、そして彼女の祖父が亡くなった後に一家が染まった懺悔教という新興宗教の存在。祖父の死に続くように、祖母と母親が亡くなり、また父親も失踪した。兄も殺され、身寄りのなくなった品琴が語る彼女の物語は、陰りを帯びながら、家族の仄暗い過去の深くまで降り、土地にまつわる不穏な真相を突きつける。その過程で「家」的な足場が解体され、品琴の孤独が闇のように重くのしかかる。最後に辿り着いた先で作者が描く情景は、この世界の不安を最大限に圧縮したものになっている。 孤独。世界の不安。続く二作に満ちているのもそんな空気だ。王定国「戴美楽嬢の婚礼」では、売春斡旋業者の「俺」のもとに一人の女性がやってくる。美楽というその女性は、明らかにこの仕事に向いてない。怯えながら接客する彼女は「俺」に迷惑ばかりかけるが、実は彼女が自分を棄てた父へ復讐しようとしていることがわかると、「俺」は彼女の物語に惹き込まれる。かつて事業に失敗し、病で衰弱する妻と父である自分に冷淡な娘を持つ「俺」の家族は壊れている。二人の孤独は戦いのなかで共鳴するが、最後に見出した愛に「俺」は戸惑う。愛を愛として受け取れない男の哀しみはやりきれないが、そんな彼のような人々に愛情の尊さを説くのが、次の作品の周芬伶「ろくでなしの駭雲」だ。 精神病院が舞台の本作では、やはり家庭が壊れ、夫に子どもを取り上げられた「私」が、精神病患者たちと生きる勁さを取り戻していく。患者たちが病院内に舞台を設え、輝かしい演技を披露する場面には生きるエネルギーが迸っていて、甘耀明『冬将軍が来た夏』の作中で同性愛者の老婦人たちが魅せた、希望に満ち溢れたステージを思い出した。孤独が孤独と触れ合うと、そこに愛が生まれ、人は生を摑み取ることができる。そんなメッセージが、眩くて、美しい。三作とも〈家〉が解体された先でそれでも生きようとする人間のもがきが描かれていて、それこそが台湾の「いま」なのだろう。 十一の短編が詰まった第三巻も、このことと無縁ではない。三須祐介氏が「解説」で書いているように、多くの作品で父の不在が問題になっているからだ。かつて家族の記憶を捏造しつつ夏休みの日記を書いていた「僕」の、妻を殺害し懲役刑をくらった父をめぐる陳柏言「わしらのところでもクジラをとっていた」や、幽霊になりながらGoogleのストリートビューを撮影している亡き父のメッセージを主人公が受け取り、親子の対面を果たす川貝母「名もなき人物の旅」。あるいは、父の突然の失踪を前に「私」が抱く戸惑いの物語のなかに原住民である彼ら一族の歴史が絡まり合うワリス・ノカン「父」も、そう。家族という共同体が旧来のかたちのままでいられないほどの磁場の変容が、「いま」起きているのではないか。 それが、多様性へと結びつく。「性根は確かに鶏のよう、姿はほとんど婆のよう」である鶏婆というセクシュアル・マイノリティの人物が保守的な抑圧のなかで抱えてきた葛藤を、歌い上げるように描いた方清純「鶏婆の嫁入り」は〈自由〉とは何かを突きつける傑作だ(三須氏の卓越した翻訳の力が堪能できる作品でもある)。表題作の鍾旻瑞「プールサイド」は、家庭教師として男児に泳ぎ方を教える「少年」が、男児の父親に誘惑され、欲動に目覚める。性の蠢きと、そこから生まれる動揺を強く、確かな言葉で描いている。多様性という意味では甘耀明「告別式の物語クリスマスツリーの宇宙豚」は、なんというか、すごい。豚を丸ごと一匹、旧暦の年越しのために買って帰るだけの物語なのだが、いつの間にか豚の血まみれで、豚の頭をかぶり、腋に豚の足を挟み、腸を巻き付けて歩いている「おれ」の姿に多様性の極地を見た。いや、すごい。 たくさんの物語が詰まった二冊を無理に一言でまとめる必要はないが、それぞれの作品からは、何かが瓦解した先で、自分たちの場所を再発見しようとする台湾の作家の鋭意を感じる。「自分たち」の物語を紡ぐ、とはそういうことなのだろう。これからも、台湾の現代文学の豊穣さが届けられる世の中でありますように。(ながせ・かい=書評家)★ご・はいちん=国立政治大学台湾文学研究所准教授。一九六七年生。★やまぐち・まもる=日本大学特任教授。一九五三年生。★しろうず・のりこ=横浜国立大学名誉教授。一九五三年生。