「誰でもよいあなた」への言語 松葉類 / 同志社大学ほか非常勤講師・哲学 週刊読書人2022年6月10日号 ジャン=リュック・ナンシーと不定の二人称 著 者:伊藤潤一郎 出版社:人文書院 ISBN13:978-4-409-03113-1 思想家ジャン=リュック・ナンシーの昨年の訃報がまだ耳に新しい二〇二二年の春、気鋭による彼の研究書が出版された。初期から晩年にいたるまでのおよそ五〇年にわたる著作活動を追うクロノロジックな記述のなかに、ナンシーの思想の錬成過程が丹念に描き込まれている。その思想は哲学史を前にした注釈としても練り上げられ、きわめて多重的で複合的な文脈に置かれているがゆえに、まずはその筋立てを解きほぐす必要があるが、本書は書名にある「不定の二人称」なる概念を参照軸とすることでそのことに成功している。 著者が折に触れて述べるように、これまでナンシーは彼の著名な共同体論――一九八三年の論文「無為の共同体」以降の著作群――やそれにまつわる諸テーゼを起点として読解されることが多かった。たしかにナンシーは、主体性および共同性を純粋な同一性もしくは何らかのアルケーに見ることの不可能性を指摘することで、伝統的な主体・共同体論の両面、すなわち諸主体の統合による共同体、もしくは共同体の包摂する主体という二つの弁証法的過程を解体したことで知られる。しかし、著者はさらにその背後に別のモメントを見出そうとする。つまり上記の読解のみによっては等閑視されてしまう、主体の起源の手前にいる、あらゆる言語がそこへと差し向けられる「誰か(quelqu’un)」そして「あなた(tu)」の位階の問いである。行動と思考の起源を主体に置く限り、主体ないし共同体の差異化を問うことには限界があるのではないか。問いの現場はもとよりひとりの主体による思考の外に置かれるべきではないか。これらの問題意識が著者のナンシー読解を通じて一貫して見出される。ただし、目的は共同体の思想家というレッテルを「不定の二人称」のそれへと貼り換えることにあるわけではなく、むしろ彼の独自の共同体論の射程を見定めるために、その起源と展開、さらには同時代的な影響関係に光を当てることにある。 以下では、本書の豊かな内容の一部をかいつまんで紹介しておきたい。本書は五章からなり、それぞれ初期思想から晩年へと至る思索過程の各段階に対応している。一九六〇年代、初期のナンシーはエマニュエル・ムーニエとジャン=マリ・ドムナックによる人格主義思想の語彙をなかば批判的に引き継ぎながら、言語使用による人格と世界との媒介作用を問題にすることから始める。このナンシーの言語論は、アルチュセールのマルクス論における哲学と科学との「認識論的切断」という読み筋を批判するなかで、「始まり」を簒奪することなき哲学の「なぜ」の問いとその差異化にかんする議論へと展開する。つまり、ナンシーはすでに初期思想において、同一性の手前へとたえず遡行する言語の働きに注目しつつ、実体あるいは実在としての主体や世界の概念化を批判的に見ている。したがってこの思想の流れを追ってゆけば、「差延」という概念なき概念によってこの非同一的運動を問うデリダとの交流も、自然の成り行きであるかのごとく理解することができる。 さらに一九七〇年代のナンシーは、デカルトとカントを読解しつつ、その後の共同体論のたんなる準備段階にとどまらない言語論を繰り広げている。主体はコギトとしての言表行為において逆説的に、このコギトから始まる二元論的図式の「始まり」の手前にいる「誰か」と境を接している。この言語はその後の共同体論において、意味の他化をめぐる「分有(partage)」の存在論においてふたたび位置づけ直される。 一九八〇年代以降のナンシーは、これまでの議論を「意味=感覚=方向(sens)」の問題系に取り集めながら、「太陽や動物や人工物」が互いに挨拶を送り合うこと、つまり「不定の二人称」への差し向けを行うことこそが世界のありようであると論じている。初期から論じられてきた主体と世界という二つの主題は、ここへきて諸存在が「不定の二人称」へと差し向けられていることにおいて合流する。最後に、この「誰でもよいあなた」へと向かう言語は、詩人パウル・ツェランが詩をたとえた「投壜通信」と重ね合わされる。この意味で、本書の至りつくナンシー読解によれば、世界は詩で満ちているのである。 さて、以上のようなナンシーの人称論的読解によって可能となるのが、他の二人称――あるいはさらに別の二人称としての三人称――の哲学との突合せではなかろうか。本書が挙げるブーバー、ジャンケレヴィッチ、ダーウォルをはじめ、メルロ=ポンティ、レヴィナス、デリダ、リオタール等々、彼らがともに分割しつつ共有する論点が仔細に検討されるべきであろう。もちろん、他の共同体論者――本書の例を引けば、バタイユ、アガンベン、リンギス、エスポジト、田崎英明――との比較研究にも新たな角度から問いが立てられうる。 また、ナンシーはとりわけアクチュアルな問いを続けた思想家であって、さまざまな現代的状況を横目に見ながら、芸術、身体、カタストロフィ、テロリズム、コロナウィルスなどの諸主題を扱った。すでにすぐれた訳業によって、その内容はひろく日本の読者の知られるところとなっているが、そこで展開される各々の問いと問題提起についてはさらに立ち入って論じられるべき点もあろう。本書を傍らに置いて、今後の著者の論考を楽しみに待ちたい。(まつば・るい=同志社大学ほか非常勤講師・哲学)★いとう・じゅんいちろう=早稲田大学ほか非常勤講師・フランス哲学。早稲田大学博士後期課程修了。一九八九年生。