没後三〇年 いまフェリックス・ガタリを読む 本橋哲也 / 東京経済大学教員・カルチュラル・スタディーズ 週刊読書人2022年6月10日号 フェリックス・ガタリと現代世界 著 者:村澤真保呂・杉村昌昭・増田靖彦・清家竜介(編) 出版社:ナカニシヤ出版 ISBN13:978-4-7795-1623-8 今年二〇二二年は、フェリックス・ガタリ没後三〇年に当たる。ガタリと言えば、ジル・ドゥルーズとの共著である『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』といった著作で、日本でも一九八〇年代以降の「ニューアカデミズム」とも呼ばれたフランス現代思想受容の雰囲気のなかで、その名を知られてきた。しかし、その評価は日本語圏では哲学者を中心としたものであったように思われる。それゆえ、ともすれば、彼らの思想への注目はフランス哲学の泰斗であるドゥルーズが中核となって、精神療法家ガタリへの注目はそれほど高いとは言えなかった。それにはガタリの多方面にわたる活動がなかなか焦点化されにくい事情もあっただろう。だが二一世紀になると、ガタリを独自の思想家として捉えなおそうという動きが本格化し、日本語圏でも杉村昌昭による一連の翻訳業績(フランソワ・ドス『ドゥルーズとガタリ』河出書房新社、二〇〇九年/リアンヌ・モゼール編『人はなぜ記号に従属するのか』青土社、二〇一四年/ステファヌ・ナドー編『エコゾフィーとは何か』青土社、二〇一五年/マウリツィオ・ラッツァラート『記号と機械』松田正貴との共訳、共和国、二〇一六年)をはじめ、上野俊哉『四つのエコロジー』(河出書房新社、二〇一六年)、伊藤守『情動の社会学』(青土社、二〇一七年)といった著作で、ガタリ思想の様々な側面における再評価が進んできた。 本書は日本語圏で出版されるガタリを包括的に論じた初めての論集として画期的だが、本書の視野もガタリ思想の異種混淆性を反映して、きわめて広範である。第I部「資本主義と政治理論」には、トランプ政権に代表されるポピュリズム政治をガタリの「ミクロファシズム」という概念によって解読するギャリー・ジェノスコ論文、ガタリの「横断性」概念の検討によってフランスの五月革命を現代の社会運動の文脈で再審するラリッサ・ドリゴ・アゴスティーノ論文、「アジャンスマン」を鍵としてガタリとドゥルーズの思想的関係を問い直す増田靖彦論文、『アンチ・オイディプス』における資本主義への問いをマルクスの『資本論』との関係において再読する廣瀬純論文、ガタリの精神医療実践を政治思想として読解するアンヌ・ソヴァニャルグ論文、ガタリの「カオスモーズ」的痙攣という概念を援用して現代の社会運動の可能性を探るフランコ・ベラルディ論文が収められている。 第Ⅱ部「メディアと機械」は、ガタリのメディアをめぐる思想から現代の「ポストメディア」社会の力学を分析するジャン=セバスティアン・ラベルジュ論文、ガタリの「主観性」概念に依拠して現代の情報テクノロジーが人びとの主体をどう変えているかを考察するジェノスコ論文、ガタリのメディア思想と自身の「自由ラジオ運動」との連環を論じた粉川哲夫論文、ガタリの「主観性」概念を基盤に現代の社会運動の可能性を展望する平井玄論文、「機械」概念を軸にマルクスとガタリとの接点において資本主義批判理論を構築する境毅論文、ガタリの臨床報告を参照しながら「非物質的宇宙」というガタリの重要な概念を掘り起こす村澤真保呂論文から成る。 そして第Ⅲ部「芸術と文化」は、ガタリのカフカ論を中心に「顔貌」「地図」といったガタリ独特の概念を論じる松田正貴論文、ガタリ思想の異種混淆性をバフチンの「ポリフォニー」概念との比較において検討する立本秀洋論文、ガタリの「主観性」概念をダニエル・スターンの臨床心理学との関係で再検討する香川祐葵論文、ガタリ思想の美学的側面を「アール・ブリュット」芸術との連関で考察する杉村昌昭論文という構成となっている。 このように各論の視座は異なってはいても、「現代世界」とタイトルにあるように、現在私たちが置かれているグローバルな支配被支配の状況、すなわち新自由主義経済と軍産複合体、ポピュリズム政権と情報テクノロジー、南北格差と新植民地主義、人新世や環境破壊への関心、アメリカ合州国による一極ヘゲモニーから多極化への移行といった政治的経済的文化的力学の分析において、ガタリ思想をどのように再活性化しうるのか、という実践的な課題が本書の核を成していると言うことができる。そのことはたとえば、廣瀬が『アンチ・オイディプス』の「再読」によって、力あるカネである「資本」と無力なカネである「賃金=購買力」とを対置し、ドゥルーズ=ガタリが資本主義国家の本質的な活動として、国債と貨幣の発行による債務を通じた生産諸力を調整し、その延長線上に戦争を位置づけた、と論じている部分にも見てとれる。すなわち、 反生産としての戦争の国家による組織化は、資本主義の発展の最先端に債務を据える。重要なのは、戦争債の発行によって、国家が国民に対して債務を負うだけでなく、それと同時に、債権者である国民も債務者になるという点だ。戦争債の返済、利子の支払い、市場価値といったものは、戦争における国民の生産力のそのパフォーマンスに大きく依存している。(中略)戦争債を介した負債も、愛国精神といったものの下で、脱コード化された労働フロー、労働者の「欲望フロー」を(国内外の)資本家の利害に従属させることを国家に許す。戦争の組織化を担うことで資本主義国家は、欲望フローのその「内化された」また「精神化された」整流器として債務を作り出すのである。(八八頁) この文言は、平井がデヴィッド・グレーバーを参照しながら、「終わりなき本源的蓄積」が「終わりなきコミュニズム」を簇生させると述べ、次のようなガタリの『三つのエコロジー』からの引用を行っている部分とも照応している―― ドゥルーズと私は、多数多様な主観性の層、かなり大きな広がりと一貫性をもった異種混淆的な層からなる無意識というものを選択したのです。したがってそれは家族中心的な桎梏から解き放たれた、より「スキゾ」的な無意識であり、過去への固着や退行ではなく現在の実践に向いた無意識にほかなりません。(一九二―一九三頁) この引用における「家族中心的な桎梏」を資本主義国家と読み替え、「異種混淆的な層」を「基盤的コミュニズム」と呼べば、「主観性」を「現在の実践に向いた無意識」と捉え返すガタリ思想の現在性が明確に浮かび上がってくる。没後三〇年を経た現在、私たちの世界は軍産複合体に支えられた「民主主義的」資本主義国家と、メディア統制の徹底した「独裁主義的」資本主義国家との新たな帝国主義戦争に直面しており、それが自然環境と市民社会の全般的危機と連動している。そのような今にあって、ガタリ思想の広さと深さと活力はますます重要性を増しているのではないだろうか。(もとはし・てつや=東京経済大学教員・カルチュラル・スタディーズ)★むらさわ・まほろ=龍谷大学教授。著書に『都市を終わらせる――「人新世」時代の精神、社会、自然』など。★すぎむら・まさあき=龍谷大学名誉教授。著書に『資本主義と横断性――ポスト戦後への道標』など。★ますだ・やすひこ=龍谷大学教授。共編著に『21世紀の哲学をひらく――現代思想の最前線への招待』など。★せいけ・りゅうすけ=龍谷大学准教授。著書に『交換と主体化――社会的交換から見た個人と社