太古から現代までの地図の系譜に籠められた製作者たちの思い 宇根寛 / 地理学者 週刊読書人2022年6月17日号 地図の進化史 人類はいかにして世界を描いてきたか? 著 者:トーマス・レイネルセン・ベルグ 出版社:青土社 ISBN13:978-4-7917-7353-4 ノルウェーのノンフィクション作家、トーマス・レイネルセン・ベルグが、膨大な資料の収集、分析によりまとめあげた地図の歴史書である。単に地図の歴史を羅列するのでなく、その地図の作者が、どのような社会背景のもとで、どんな意図をもってその地図を作製し、世に問うたかを、製作者のメモや日記、関係者の発言などの引用を通じて、できる限り製作者自身に語らせることを重んじているように思われる。原語の訳でやや読みづらい部分もあるが、敬虔な信仰心やライバルへの競争心、自国の領土拡大をめざした愛国心など、地図に籠めた製作者の思いが生々しく伝わってくる。何よりも、目次をめくるといきなり現れるオルテリウスの「世界の舞台」に始まり、数ページめくるたびに次々に現れる、両ページ見開き全面を使った多数のカラーの地図たちが美しい。キャプションだけでもどのような地図かがわかるので、本文を読み飛ばしてキャプションと地図を追っていくだけでも本書を手に取った価値は十分である。 本書の地図の進化史は、三〇〇〇年前に描かれたイタリア、カモニカ谷の洞窟壁画「ペドリーナ図」から始まる。著者は、これが、単なる「絵画」とは一線を画す、太古の人々の空間認知を表現した「地図」であることを解き明かす。 西暦一五〇年頃のアレクサンドリア図書館で、地図の進化史は最初の絶頂期を迎える。古代ギリシャで天文学や哲学などとともに科学として発展した地理学の大量の蔵書をもとに、プトレマイオスは「ゲオグラフィア(地理学)」を執筆する。本書では、「ゲオグラフィア」に示された座標に基いてルネッサンス期に作成された地図とともに、プトレマイオスが提案した平面図法の図解も掲載されている。 その後、キリスト教による世界観、宇宙観をもとにした「聖なる地理学」の時代が訪れる。本書では、極東やアフリカ南部など、「存在するはずのない」地域からもたらされる新たな知識に混乱する地図製作者たちの様子が描かれている。 本書が次の地図の進化史の舞台として取り上げたのは、交易で栄える一六世紀のベルギーの港町、アントワープである。この町の市井の地図職人たちが、船乗りが持ち帰る新たな土地の情報をもとに美しい地図を競って作製し、装飾品として商人たちに重宝された。大航海時代がやってくると、知られていなかった地球の裏側の情報ももたらされ、世界の様々な地域の地図が大量に作製された。これらの集大成が、アントワープの地図作製者であるオルテリウスが一五七〇年に出版した地図帳「世界の舞台」であった。本書のノルウェー語の原題Verdensteaterを訳すと「世界の舞台」であり、オルテリウスの偉大な地図帳にちなんでつけられている。 やがて、ヨーロッパは、各国が領土をめぐって戦争を繰り返す戦乱の時代に突入し、地図作製は近代的な測量により国家事業として行われるようになる。地図作製の担い手は国家公務員や軍人になり、国家の威信をかけて、地図のない地域の地図作製を行い、自国の領土の拡大に努めることになる。 また、本書は、海底の地図についても、地図作製者の視点から取り上げている。ひとりのアメリカ人女性地図技術者が、海底の地図作製を通じて大陸移動を実証する過程が、美しい海底地形図とともに描かれている。 今日の地球観測衛星の礎を築いた米ソの宇宙開発競争やソ連の地図を通じた国家戦略などの記述は、最近のロシアのウクライナ侵攻情勢に重ねて読むと感慨深い。 さらに、本書は、アメリカのゴア副大統領のデジタルアース構想からグーグルが世界のデジタル地図を席巻する経緯についても触れている。 最終章で、本書は、「地図は「何の理由もなく」誕生するわけではない」と述べている。アレクサンドリアの図書館は、学術が通商をもたらすために設置され、オルテリウスは実用的な地図を必要としたひとりの商人のおかげで地図帳のアイデアを思いついた。グーグルマップに掲載されるためにお金を払うピザ屋は、地図がさらに改善されるよう衛星画像に出資しているのだ、という。評者は、拙書『地図づくりの現在形』(講談社選書メチエ)で、「地図はみな同じ、ではない。どんな地図にも、作成者の意図がこめられており」、「いい地図とは、作成者が伝えたいことが明確に伝わる地図である」と書いた。まさに、我が意を得たり、である。 本書全体を通じて、北欧の地名や人名が多数記載され、馴染みのない私たちには読みづらいこと、反面、アジア、特に日本の地図の記述はほとんどないことを付記しておく。(中村冬美訳)(うね・ひろし=地理学者)★トーマス・レイネルセン・ベルグ=ノルウェーのノンフィクション作家。一九七一年生。