真に待ち望まれた、時宜に適った作品 質的社会調査のジレンマ 上・下 吉原直樹 / 東北大学名誉教授・都市社会学・アジア社会論 週刊読書人2022年6月17日号 質的社会調査のジレンマ 上 ハーバート・ブルーマーとシカゴ社会学の伝統 著 者:マーティン・ハマーズリー 出版社:勁草書房 ISBN13:978-4-326-19982-2 このところ、量的調査の技術的推敲が著しくすすむ一方で、それに批判的に対峙するエスノグラフィーの累積にはとどまるところがない。そうしたなかでフランクフルト学派のいう理論的研究はいうにおよばず、その対向をなす経験的研究の内質もまたおそろしく軽んじられる傾向が強まっている。本書は、そうした傾向を見据えながら、ハーバート・ブルーマーの科学概念を礎石として、質的調査か量的調査か?という平板なディコトミーを越えて調査方法論(争)史に深く分け入り、その地層からあるべき社会調査の方法を根源から問い直そうとするものであり、真に待ち望まれた、時宜に適った作品であるといえる。 都市社会学界の片隅で細々と研究をおこなってきた評者からみれば、シンボリック相互作用論の台頭はたしかに、パーソニアンの社会学界の席捲(と量的調査の興隆)とともに、too oldでありtoo traditionalであるとラベリングされて後景に退いていたシカゴ社会学が再び社会学界の前景に立ち表われるのに大きく与したが、草創期の都市社会学の根底に伏在する時代精神を掘り起こすものにはならなかった。それは「日本からシカゴ社会学をみてきた」都市社会学界内部にひそむ理論的バイアスを示すとともに、シンボリック相互作用論のエピゴーネンたちがシカゴ社会学の背後要因をなす都市的世界(=シカゴ的世界)にきわめて無頓着であったことと無関係ではないように思われる。そうしたなかで、二〇年代から三〇年代のシカゴ社会学を色鮮やかなものにしたシカゴ・エスノグラフィーに光をあてる研究が、近年陸続しているが、評者からみれば、それらはどちらかというと書誌学的な叙述に傾きがちであり、上述の欠を十分に補っているようにはみえない。だからシカゴ社会学をめぐっては、ひところのように明確に無視するという雰囲気はないにしても、関連するアカデミズムの世界で大きな空隙ができていることはたしかである。 本書は、ブルーマーの科学概念に寄り添いながら、調査方法論(争)史に深く分け入るが、シンボリック相互作用論のエピゴーネンたちが量的調査にたいしておこなっている通俗的な批判、典型的には現状維持的な立場にたっているといったような批判には明らかに距離を置いている。本書では、そうした批判の向う側にひそんでいる、質的研究(者)が持ち出す方法論に関する議論へのブルーマーの疑義(=不満)が起点をなしている。それはブルーマーによると、「社会調査」が直面するジレンマ、すなわち「社会的事象は、主観的要素と客観的要素の両方を考慮に入れることなく理解はできないのに対して、科学の諸条件を満たした形で主観的要素を捕捉する方法を、現在の私たちは手にできていない」(5~6頁)という問題としてあるという。 本書の著者は、少なくとも、ブルーマーはそうした問題にたいして解決されたふりをしなかった、と述べている。そしてこのジレンマをブルーマーがどうブレークスルーしようとしたのかを、ブルーマーの諸著作を紐解きながら、その知的文脈と時代的位相に立ちかえって明らかにしようとしている。重要なのは、その作業がブルーマーによって量的調査批判の前提をなすとされた「実在論、シンボリック相互作用論、批判的常識主義」(220頁)への無条件の肯認ではなく、むしろそれらにたいする内在的な批判に底礎しておこなわれていることである。著者によれば、ブルーマーの著作には、質的調査、量的調査のいかんにかかわらず、調査方法にかかわる多様な問題構制が雑然と入り混じっているという。だからこそ、ブルーマーの著作に向き合うことによって、「質的調査の核心には、深刻だが未解決の方法論的問題が複数ある」(129頁)ことがわかるというのである。こうした作業は、残念ながら先に一瞥したような支配的な都市社会学とかシンボリック相互作用論のエピゴーネンたちなどには望み得ないものである。少なくとも、シカゴ社会学の哲学的位相、社会思想(史)的地層への視野拡大なしには達成され得ないと考えられる。その点で、本書の訳者が巻末で「イングランドからシカゴ社会学をみる…」としているのは、本書を通底する著者の論題設定の意図をきわめて達意に言いあらわしているといえる。それは「日本からシカゴ社会学をみる」立場では到底想到しえない、社会史と思想史との接続のうえにあるイギリスの社会科学ならではの論題設定なのである。 ちなみに、本書の訳者は、巻末で本書には前史としての革新主義への論及が手薄であるとして、補説している。この点は私も大いに賛同するが、実は「日本からシカゴ社会学をみる」都市社会学の外側では、日本社会学においても、革新主義を視野におさめた卓抜した先行研究があることを指摘しておきたい。たとえば、早瀬俊雄のアメリカ社会学成立前史の研究ではソーシャル・ダーウィニズムのアメリカ的形態が、また宇賀博のアメリカ福音主義の研究では、バプティスト・ディシプリンの制度的文脈が見事に析出されており、シカゴ社会学を嚮導した革新主義の水脈を掘り当てている。これらの研究は、いわば「アメリカからシカゴ社会学をみる」、社会思想(史)的文脈に通脈した方法論的研究に深く足を下ろしている。いずれにせよ、本書の出現によって、「イングランドからシカゴ社会学をみる」立場と「アメリカからシカゴ社会学をみる」立場とがまがりなりにも合奏し、調査方法論(争)史により深みが加わるようになったことは、大いに欣ぶべきことである。同時に、「日本からシカゴ社会学をみる」立場に再帰的機会をもたらしていることも銘記すべきである。 なお評者は、一連のシカゴ・エスノグラフィーが「観察者の持っているすべての関連する想像力」(26頁)を駆使して浮き彫りにしてみせたシカゴ的世界の裡に、ブルーマーが創発的な社会的結合――それは最近の議論でいうなら、アサンブラージュ/アセンブリやアフォーダンス――の契機を観ていたように思うのだが、もしそうだとすれば、それは近年、理論的研究、経験的研究の双方において社会の再概念化にきわめて重要な役割を果たすようになっているラトゥールのANT理論、いうなればネットワーク自体が主体であるという社会理論の一つの水脈をなすものとして注目されよう。このことは本書の論題設定からやや外れるが、ブルーマーにおけるプラグマティズムの知的源泉をさぐるうえで、さらにシカゴ社会学の現在性を問い込むうえで避けて通れない論題であろう。いずれにせよ、本書以降の次なる課題として頭に置いておきたい。(谷川嘉浩訳)(よしはら・なおき・東北大学名誉教授・都市社会学・アジア社会論)★マーティン・ハマーズリー=イギリスの社会学者・教育学者。マンチェスター大学名誉教授。