時代様式の概念から自由になる 谷古宇 尚 / 北海道大学大学院教授・中世後期イタリア美術 週刊読書人2022年6月17日号 ゴシック新論 排除されたものの考古学 著 者:木俣元一 出版社:名古屋大学出版会 ISBN13:978-4-8158-1060-3 一九八〇年代の終わりに、美術史学会の全国大会で、フランスから戻って間もない著者の研究発表を聞いたことを覚えている。そのテーマが、本書の最後、第Ⅴ部で大きく扱われる「シャルトル大聖堂『王の扉口』の装飾小円柱」についてだった。タイトルもほぼ同じはずだ。当時、いまほどには世知辛くなく、業績の数を闇雲に増やそうと考えずに、留学帰りの若手たちは御披露目に一発大きな発表をしていた印象がある。それにしても手前に置かれる有名な「人像円柱」ではなく、その間に挟まれて奥に隠れた「装飾小円柱」に注目するのは一体どうしたことか、よく理解できなかった。 三十数年が経ち、大学の定年が視野に入る頃になって、著者はようやくその意図を十分に説明してくれた。本書では「人像円柱」の説明も、第Ⅱ部に詳しい。王の扉口の「人像円柱」は、ダビデやソロモン、シバの女王たちを表しているのではなかったか。しかしながら、著者は像の同定には触れず、こうした名前を一切挙げることなく、シャルトルの「人像円柱」で押し通す。像が誰であるかではなく、その造形上の特質を把握することが大事なのだ。そしてその時、さらに重要なのは、ロマネスクやゴシックといった時代区分と結び付けられる「様式」の概念に囚われてはいけないということである。 シャルトルの「人像円柱」において、平板な身体はロマネスク様式で、それに対して突き出た頭部や腕はゴシック様式で作られているとか、そこには彫刻が建築から自立しようとするロマネスクからゴシックへの移行が見られるとか、こうした二百年にわたってくり返されてきた造形的な理解の弊害の大きさを著者は指摘する。平面性/立体性、建築への従属/建築からの解放といった二項対立や、時代精神を反映する時代様式、あるいは前の時代から後の時代へ向けての単線的で目的論的な様式の展開といった物語を作り上げるために、そこから排除されてしまった無数の、そして魅力的な作品がある。そうした美術史家が見ようとしてこなかったものを救い出すために、著者は「人像円柱」をまず再検討し、「装飾小円柱」に着目するのだ。また、ゴシック建築における円柱やコリント式柱頭(第Ⅲ部)、絵画や彫刻・工芸に表される建築モチーフ、さらには建築の中の建築モチーフといえるキャノピー(天蓋)など「マイクロアーキテクチャー」(第Ⅳ部)を取り上げ、ロマネスクとゴシックの時代・様式区分を相対化してゆく。 あとがきによれば、当初の予定の倍以上の図版が掲載されることになったという。本書の優れた点は、列挙される作品の膨大さにあると思う。かつて私は、本書にもしばしば名前が出てくるアンリ・フォシヨンの著作を読もうとして、初学者だったこともあり、フランスの知らない地名と聖堂名の多さに挫けた。フランスの美術史学はべたに記述する傾向がある気もしていたが、本書は図版が助けになり、解説も小気味よい。そして何より「ロマネスクでもゴシックでもないもの」を多様な関係の中に置き、見えなくなってしまった作品を再び見ることができるようになるためには、古代にも遡ってこれだけの点数を見せなければならないことに納得させられる。 さて、ロマネスクとゴシックを時代的に切り離さず「長いゴシック」としてとらえる。それは「かたちに関する諸動向を複雑に絡み合う関係性として整理し提示することが求められる」ために「複数形で」取り扱われる。単純に中心と周縁があるわけではない。地域的な影響関係は様々で、複雑なことも理解できた。それゆえ「複数形で長いゴシック」という考え方の枠は大いに賛成できるが、例えばイタリアの場合、それをどう適用すればよいのか。図像の影響力の強さも含めて「複数形で長いビザンティン・ゴシック」といったより拡大した概念を作り出す必要があるように思われるが、それは著者でなくイタリア美術史家の課題なのだろう。(やこう・ひさし=北海道大学大学院教授・中世後期イタリア美術)★きまた・もとかず=名古屋大学大学院教授・美術史・建築史。パリ第一大学博士課程にて博士号取得。著書に『ゴシックの視覚宇宙』など。一九五七年生。