社会科の授業がもつポテンシャル 坂井亮太 / 中央学院大学法学部専任講師・政治学 週刊読書人2022年6月24日号 〈社会的排除〉に向き合う授業 考え話し合う子どもたち 著 者:坂井俊樹(編著) 出版社:新泉社 ISBN13:978-4-7877-2118-1 一軍、二軍、三軍。プロ野球ではなく、学級の中にあるスクールカーストのことである。その入れ替わりは激しく、子どもたちは敏感であるからこそ、自分は脱落したくないと思い、排除される側の感情に鈍感であろうとする。 この自己防衛的な鈍感さは、子どもたちの社会に対する態度にも影響を与えるのではないか。著者たちが共有する問題意識には、二級市民に脱落しないようにと、子どもたちが他者の苦しみや社会的弱者の思いに鈍感になっていることへの危惧がある。そこで著者らは、社会科の授業を通じて、社会的排除に向き合っていく。本書には、その四年間にのぼる軌跡が記されている。 社会的排除は、主要な社会関係から特定の人々を締め出す構造を指す(本書一二頁)。学級や社会科の授業のなかで、どのように社会的排除に向き合うのか。著者らは、「他者(当事者)と対話・交流」する授業を通じて、生徒に「当事者」の視点に立つように促す。生徒が自己の見方をメタな視点から捉えなおす機会を通じて、社会的排除に向き合おうとする。 授業編では、小学校から高等学校までの異なる校種と学年を受けもつ九名の教師による社会科の授業実践が紹介される。これらの実践のキーワードは対話である。対話は、生徒同士、当事者、歴史資料との間で展開される。授業テーマは、ダム建設、水俣、アイヌ、韓国併合、ファスト・ファッションの功罪と多彩で、同時に、社会的排除という問題の遍在性を示している。 考察編では、主に社会科教育を専門とする五名の有識者と夜間定時制高校に勤務してきた教師による論考が収録されている。授業編の各実践に対する考察というよりは、社会的排除にまつわる複数のトピックが論じられる。なかでも興味深かったのが、夜間定時制高等学校からみた社会科教育の使命についての議論である。発達に課題をもつことも多い生徒たちが、自身の「困り感」が作り出される構造に対し異議申し立てを行い、それを自らの手で少しずつ取り除けるようにすること。このような「市民」の育成が、上段に構えた「公民」の育成より先に来るという現場の実感を伝えている。 本書がめざす対話を重視した授業は、今日の社会的要請となっている。中央教育審議会の答申(二〇二一年一月二六日)では、令和の日本型学校教育にむけて、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善がうたわれる。教師にとって本書は、対話的な学びをめぐる多彩な教材の発掘・開発、単元計画、授業展開、生徒の生の反応が記録されており有益であろう。そればかりでなく、市民参加や会議運営に関心のある読者にとって、本書は参加者の意見変容の経過がつぶさに観察・記録された資料的価値を有している。 本書は、教え授ける教師像を転換し、他分野との連携の可能性を拓くものである。一部の生徒にとって、対話は負担かも知れない。彼らにも配慮しながら、発話の包摂を促していくところに、ファシリテーターとしての教師像が展望できるだろう。さらに、これまで市民の対話を推進してきた政治学、自治体、あるいは企業研修などの領域と学校との連携の可能性も期待される。 著者らは、水俣病を「しかたない」ととらえる生徒に、対話を重視した社会科の授業を通じて向き合い(一〇-一一頁)、それを「かわいそう」と言わせる地点に到達した(三四頁)。しかし、「かわいそう」という言葉からは、子どもたちが当事者に共感したのち、再び優越した立場に戻っていく姿勢を感じ取れまいか。その意味では、「子どもたちを排除する側にむかわせない『排除の抑制』」という視点にたった取り組みが光る。所収の授業実践を通じて、「かわいそう」にとどまらず、社会構造、問いの立て方、自身に潜む加害可能性に生徒の理解が向かっていく様子は印象的だ。 ここに、本書の書名が、社会的排除に「向き合う」であることの理由がある。社会的排除は、容易に乗り越えなどできず、不断に対話を通じて社会的排除に関する認識を更新していかなければいけない。そのような著者らのメッセージと試行錯誤が込められた一冊である。(さかい・りょうた=中央学院大学法学部専任講師・政治学)★さかい・としき=開智国際大学教育学部教授・教育学。著書に『現代韓国における歴史教育の成立と葛藤』など。一九五一年生。