民族学の対象と方法をめぐる問題の核心 山田広昭 / 東京大学大学院元教授・フランス文学・精神分析批評・言語態研究 週刊読書人2022年6月24日号 メトロの民族学者 著 者:マルク・オジェ 出版社:水声社 ISBN13:978-4-8010-0632-4 本書がパリのメトロとそれを日々利用する乗客たちを主題としているという理由から、自分には無縁の本だと遠ざけてしまう読者がいるとすれば、それは間違いだし、残念なことだと言わなければならない。たしかに本書は「ドイツ兵をはじめて見たのは、モベール=ミュチュアリテ駅で、一九四〇年、集団避難から戻るときだったと記憶している」という文で開始され、著者の子供時代の活動範囲のほぼすべてがそこに含まれる10番線の駅名の列挙へと続いていく。セーヌ左岸で少しでも暮らしたことがある人間にとっては鮮烈な記憶を次々と喚起せずにはおかないであろうこうした駅名は、パリとかかわりをもたない人間の目には何らのイメージも呼び起こさない無機的な列挙でしかない。 しかし、たとえパリのメトロがそれが縦横に結ぶ街並みとともにどれほど特異な魅力を備えた存在であったとしても、本書の真の主題はそれとは別の所にある。注意深い読者ならこの小著のタイトルが、一瞬そう読み違えそうになる『メトロの民族学』ではなく、『メトロの民族学者』であることにすぐに気づくことだろうが、日本語では漢字一文字の追加に還元されるこの差異は、本書においては決定的な意味を持っている。というのも、メトロの民族学者(メトロに乗っている民族学者)とは結局のところ一個の比喩だからである。 民族学者の仕事は伝統的に、自らの帰属する社会や文化とは別の社会、文化の中に、それらを調査し、記録(記述)し、分析するために入っていくことであった。意識的であれ、無意識的であれ、こうした所作には、現存する多様な文化についての進化論的な図式や失われつつあるものに対する愛惜が、さらに、そこに自文化を映し出す鏡を見出そうとする意図が、ある種の優越意識と無縁ではないかたちで、伴わずにはいなかったと言ってもいいだろう。その中で民族学者は、己の良心と学問の正当性を失いたくなければ、著者が民族学者を統合失調症的状況に追い込むものとみなす一つの要請(民族学者は自民族中心主義に陥らないように注意せねばならないと同時に、観察している環境に溶け込みすぎてはならず、距離を保つと同時に参与観察を行わなければならない)を生きざるをえない。 では、メトロの民族学者とはいかなる存在なのか。それはパリで育ったオジェにとっては、自分自身の社会の民族学者のことにほかならない。こうした「場所」の移動(自らの社会と文化への帰還)は、民族学者に自らの学問(より広くは文化を対象とするあらゆる学問)の対象と方法についてどのような省察をもたらすことになるのだろうか。問題の核心は、マルセル・モースが「全体的社会的事象」と呼んだものにいかにすれば接近できるのかということにある。この事象は純客観的には把握できない。なぜならそれは個人が自身について、とりわけ他者との関係における自己の位置について持つ本質的に情緒的な意識を不可欠の構成要素とするからである。この事象はまた同時に経済的かつ法的かつ美的等々でもあるために個別の制度の言語によって記述することもできない。レヴィ=ストロースは自己と他者とをつなぐ無意識としての象徴体系を持ち込むことでここにある認識上の困難の消去を試みた。そのとき社会的事象は一気に全体的に把握可能なものとなる。しかし、オジェによれば、これは偽の解決である。「これらの主観的かつ客観的な要素は、決して本当の意味では全体化できないものなのだ。いかなる社会的事象も、レヴィ=ストロースが理解していた意味で全体的に感知されることはないだろう。」 メトロの民族学者はこうして自らもその一員である乗客たちの個人的であると同時に集団的なあり方についての観察と考察を繰り出してゆく。だが私は本書の理論的性格をいくぶん強調しすぎたのかも知れない。「長いあいだ私にとって、未知なるものはデュロック駅から始まっていた」。このプルースト的な調子に導かれて、駅名を自らにとって親しいものに置き換えながら夢想に身を委ねることもまた本書の楽しみ方の一つだろうからである。(藤岡俊博訳)(やまだ・ひろあき=東京大学大学院元教授・フランス文学・精神分析批評・言語態研究)★マルク・オジェ=人類学者。パリ社会科学高等研究院(EHESS)にて指導教授を務めた。著書に『国家なき全体主義』『非‐場所』など。一九三五年生。