「低俗」と見なされてきたメディアを問い直す 阪本博志 / 帝京大学文学部社会学科教授・社会学 週刊読書人2022年6月24日号 地下出版のメディア史 エロ・グロ、珍書屋、教養主義 著 者:大尾侑子 出版社:慶應義塾大学出版会 ISBN13:978-4-7664-2803-2 本書は、二〇二〇年一二月に東京大学で学位を取得した博士論文をもとにしている。テーマは、梅原北明(一九〇一~一九四六)に牽引された、一九二〇年代から一九三〇年代初頭にかけての地下出版(会員制エロ出版)である。近代日本において「低俗」なものと見なされてきたメディアを、いっけん無関連に思われる教養主義的な言説空間との関係性から問い直し、近代日本の知的空間を再考するものである。 本書は、序章「教養主義の「裏通り」」・第一部「地下出版界の前史」・第二部「地下出版界の成立過程」・第三部「地下出版界の成熟と瓦解」・終章「「攪乱」する思想としての地下出版」の一〇章から成る。これらの内容は、終始一貫して丁寧な記述で綴られている(付録に、詳細な「昭和「地下出版界」関連年表――梅原北明とその周辺」がある)。 本書の核と判断される、第二部の内容を概観したい。 第四章「〈変態〉な教養/教養としての〈変態〉――逆立ちした教養主義」では、文藝市場社内に一九二六年七月設立された文藝資料研究会が同年九月から一九二八年六月まで発行した雑誌『変態・資料』がとりあげられる。 同誌は、あらゆる〈変態〉な対象をカタログ化して知的に読み替えていく。この振る舞いは、「正常」や「正統」なものから逸脱する、いわば「悪趣味」や「低俗」な対象を称揚するものであり、読書を通じた人格の涵養に基礎づけられる「正統」な教養主義的所作の対極にあるようにも見える。これに対し著者は、「潤沢な趣味的教養をもって「教養主義」的ルールからあえて逸脱していく、メタ的な遊戯であった」と評価する。 第五章「愛書趣味とオブジェとしての書物――軟派出版界と限定本の快楽」においては、文藝資料研究会より一九二六年七月に刊行が始まった『変態十二史』を嚆矢とする艶本叢書が俎上に載せられる。そして「大衆的教養のシンボルたる「表通り」の円本ブームに対して、艶本ブームとでも呼ぶべき文化の「裏通り」を浮かび上がらせる」。 第六章「〈談奇〉の表象と東アジア――理想郷イメージとしての上海」では、一九二七年の文藝市場社の上海への拠点移動が、同時代の上海の状況を広く視野に入れて、たどられる。「戦前昭和の軟派出版とは、国内に限定された特殊な出版文化ではなく、東アジアの一九二〇年代というより広いコンテクストから捉え直すべきメディア文化圏なのである」。 終章で著者は、丸山眞男が、職業を超えた「知的共同体」の形成意識が高まった時期として、一九二〇年代からの「思想問題」の登場にみるマルクス主義の時代を挙げていることに着眼する。 著者によると、一九二〇年代から一九三〇年代初頭にかけての「地下出版界」は、上記の時期の動きと共鳴している。『変態・資料』をはじめとする軟派出版メディアで蓄積された知性と、それを共有する人々の私的なネットワークについて考えることは、近代日本の「知識人」とはなにかという問いに密接に関わっている。 著者は本書をこう結ぶ。「誰かにとって、「生活に対する倦怠を爆発さしてくれる、一杯のカクテール」(酒井潔)となったとき、はじめて本書はそのささやかな役割を果たすだろう」。酒井とは、「エロ出版と豪華装幀で大きな功績を残した」人物である。 本書は、一九八九年生まれの著者が収集した、国会図書館・大学図書館には所蔵されていない、地下出版の刊行物(雑誌・書籍)のみならず会員に送られた刊行案内・内容見本・会員通知等をもとに研究された成果である。 関連する先行研究が渉猟され明晰な文体で堅実な論理が展開されている本書から与えられた、知的興奮や知的啓発は、評者にとっては「一杯のカクテール」を上回るものであった。(さかもと・ひろし=帝京大学文学部社会学科教授・社会学)