既存の「社会」を刷新するための資料として 山岸剛 / 写真家 週刊読書人2022年7月1日号 カラー 世界 パンデミックの記録 コロナに立ち向かう人類の挑戦 著 者:マリエル・ウード(編)/AFP通信(写真) 出版社:西村書店 ISBN13:978-4-86706-034-6 「出来事が日付や目撃者やカメラと結びつく、あの出会いによって、彼ほど深く絶望した人間が他にいるだろうか」(ヴァルター・ベンヤミン「カール・クラウス」、『ベンヤミン・アンソロジー』山口裕之訳、河出文庫所収)。この本に収められている写真に何が写っているのか。タイトルからして言うまでもない。二〇二〇年から二一年、新型コロナ・パンデミック初期の世界各地を、ジャーナリストたちが活写した写真である。では、これらの写真をどう読むのか。このパンデミックの大波は、これから順次日本列島を覆っていく梅雨前線のように、いまだ世界の最前線に停滞し続けている。ゆえに今、これらの写真群は、現在進行形のパンデミックという時事性(アクチュアリティ)と、ほとんど表裏が張り付いたかのように密着している。だから私たちは、これらのイメージを、いま=ここのパンデミックという文脈から、むしろ引き剝がすようにして読まなければならない。嗚呼、世界はこんな風だった、タイヘンだったね、などと呑気に、すんなりと消費されては困る。未来にカタストロフィーが起こって私たちの文明が滅び去った後に、異郷からの客が初めて、つくづくと眺め入るかのように、これらの写真をいわば「逆なで」して、ささくれ立った表面として読み込まなければならない。 例えば七頁の写真――ほとんど「族長たち」を思わせる屈強の男たちが、中央からの報せ、即ち「感染症関連の情報」を手に、辺境たる新疆ウイグルに向けて馬を疾駆させている。「族長たち」は白一面の雪原の只中で、口元のマスクはもちろん、全身を防護服に包んでいる。しかし、盛んに白い息を吐き出す馬たちの口元にマスクはない――これは果たして当然なのか? 動物たちにマスクは必要ないのか? 一説によれば、このウィルスは人間化された自然すなわち家畜の豚を介して、野生のコウモリから人間に感染したという。ウィルスは動物から動物に感染するのではないのか? 人間は動物ではないのか?――世界中の多くの都市がロックダウンされた。人間と触れ合うことを禁じられた人間は、多くの写真において、各自それぞれの棲み処で、自らが愛玩するペットの動物とはこぞって体を寄せ合っている。一六五頁の写真、二匹の猿は、路傍に捨てられたマスクを弄んでいる。添えられたキャプションには「新しいおもちゃだ!」とある。本当にそうなのか? たしかに現時点では、このウィルスは主に人間から人間に感染するのであって、人間から他の動物に感染するのは稀であることが分かっている。しかし、そもそも「動物」たちは、「ソーシャル」の範疇には入っていない。「ソーシャル・ディスタンス」は、人間という「動物」から、「自然」から能う限り遠く離陸した動物のみに適用された。この「社会」には「人間」しかいない。しかし、「社会」という秩序の源泉は「自然」ではなかったか? 人間は自然を観照し、それに共振共鳴することで、そこから秩序をつかみ出し切り出して、以って事後的に社会を作り上げたのではなかったか? 今、人間は「社会」でのみ生きている、ひたすら「ソーシャル」な自閉域に「密」な動物であることが、これらの写真から見て取れる。しかし、人間はたんに社会的存在であるだけではない。狭く社会的存在にのみ矮小化されるべきではない。 あるいは五二頁の写真――今や人間は、ある場所から別の場所に移動するたびに、眉間に赤い光を照射される。エルサルバドルの「貧しい人々」の一人であるリゴベルトは、ロックダウンのため、生きていく場所を奪われ、「ホームレス用の施設」に移動される。七五歳の老人の、深く刻み込まれた皺と、その皺を反復するようにくしゃくしゃの薄汚れたマスクとに覆われた顔面の、その眉間に輝く赤い光—―これは「第三の眼」ではないか? 人間が自然のリズムに同調するとき働くという「松果体の眼」―「自然からの家出息子」(ニーチェ)たる人間が限りなくか細く痩せ衰えさせてきたこの「第三の眼」の力能を、今こそ人間は取り戻すべき時ではないのか? 眼と眼のはざまから発するこの光は、「検温」という「新しい日常」から引き剝がして、別様に読まれなければならない。 さらに一〇七頁の写真――バルセロナの「オペラ劇場」で、「弦楽四重奏団がプッチーニの『菊』……を演奏しはじめた」。贅を尽くした絢爛たる劇場の観客「席を占めているのは……2292本の植物」である……。これは不遜ではないか? むしろ逆ではないのか? 人間は今こそジョン・ケージの『4分33秒』を、自然の只中で「演奏」し、それによって自然の沈黙の声にこそ耳を澄ますべきではないのか? いや。むしろ肯定的にこう読むべきかもしれない。今や人類はプッチーニを、モーツァルトを、ベートーヴェンを「演奏」し、これを植物たち、動物たちに聴いてもらうべきなのかもしれない。ヒューマニズム=人間中心主義ではない、真のヒューマニティを、人間の人間たる最良でもっとも豊かな誇りうる核心を、彼らに聴いてもらう。そのことで自らも彼らの一員たりうることを慎んで示し、もう一度彼らの仲間に受け入れてもらう。そう発信すべき時なのかもしれない。自らの「内なる自然」を新たに認識するためにも。 パンデミックという現在進行形の出来事が、明々白々たる文脈が張り付いた写真たち――これをいかに読むか、これらの写真にいかに「引っ掛かる」か。すらすらと、平らかに頁を繰ってはいけない。千年後の異人たちが凝視するかのように、遠く離れた対岸から望遠レンズで、全体ではなく部分を意図的に拡大するように、喰い入るように読み込まねばならない。ただ単に「パンデミックの写真」では、感染の危険を冒して撮影したジャーナリストたちの労は報われない。少なくともこれらの写真はソーシャルにのみ、読まれるべきではない。「人間―社会」の袋小路ではなく、新たに獲得すべき「第三の眼」をもって、「人間―社会―自然」の三者関係のなかで読むこと。それによって現行の、既存の「社会」を刷新するべく読まれねばならない。そのための資料として長く読み継がれるべき写真群である。(青柳正規日本語版監修・前島美知子訳)(やまぎし・たけし=写真家)★マリエル・ウード=フランスのジャーナリスト。パリ政治学院などで学んだ後、AFP通信(フランス通信社)でソ連崩壊後のロシア情勢を長く取材。