「正しさ」か「豊かさ」か――「解釈」をめぐって 渡名喜庸哲 / 立教大学准教授・社会思想・フランス哲学 週刊読書人2022年7月1日号 レヴィナスの時間論 『時間と他者』を読む 著 者:内田樹 出版社:新教出版社 ISBN13:978-4-400-31095-2 本書は、エマニュエル・レヴィナスの『困難な自由』や『タルムード講話』、さらに関連図書の翻訳を通じて、また一般の読者に向けられたいくつもの著作によって日本におけるレヴィナス受容の先鞭をつけた著者内田樹による久しぶりのレヴィナス論である。二〇一四年から『福音と世界』という月刊誌に継続的に寄稿された原稿が元になっている。副題のとおり、『時間と他者』〔現在入手しやすいちくま学芸文庫版『レヴィナス・コレクション』では「時間と他なるもの」〕という論考の読解が主題となっている。これは、一九四六から四七年にかけて、パリの哲学学院というところでレヴィナスが行なった連続講演を収めた薄い本である。短いものながら、第二次世界大戦における家族を含むユダヤ人の悲惨な境遇の直後に、レヴィナスが自らの思想を紡ぎ出したテクストである。内田は、定期寄稿を通じ、六年の歳月をかけてこの本を丹念に読み込み、ほとんど逐語的に解釈を加え、同時に、前提となっている知識や関連する思想的・社会的状況に目を配ることで、きわめて難解で知られるレヴィナスの思想の「解像度」を上げようと試みている。とりわけ、「ホロコースト」の後に、「絶対的他者」の思想を打ち立てたレヴィナスの「喫緊の哲学的課題」を「希望の時間論」として示そうとするものである。『レヴィナスと愛の現象学』、『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』に続く内田のレヴィナス三部作を締めくくるものと言って間違いない。 冒頭の「予備的考察」において、レヴィナスが前提としている哲学思想としての現象学、そして彼が自らの思想のもう一つの軸としていた「ユダヤ的な知」の繫がりが確認される。以降は、第Ⅰ講から第Ⅳ講まで、『時間と他者』の逐語的な丹念な読解がなされる。「時間」を主題としてはいるが、「実存者」の「孤独」から始まり、「糧」と「理性」、はたまた「労働」と「死」を経由して、最終的に「女性的なもの」、「エロス」、さらには「豊穣性」(繁殖性や多産性とも訳される)へといたる同著は、レヴィナスの著作のなかでもきわめて難解なものの一つとして多くの読者の興味と当惑を誘ってきた。レヴィナスの初期思想との関連で読もうとするもの、現象学やハイデガー存在論との関係を重視するもの、「エロス」論に焦点を当てるもの、さまざまな読解があった。内田の解釈の指針ははっきりしている。ナチズムおよび「ホロコースト」の迫害の記憶のなかで、ナチスを支持したハイデガーの存在論について哲学的な批判を企て、それに対し崩壊したユダヤ人共同体の精神的な再興を目指し「ユダヤ的な知」を対置させる、という構図だ。こうした構図をもとに、同時代の思想状況はもとより、洋の東西を問わずさまざまな思想が援用され、『時間と他者』が解きほぐされる。本書が『時間と他者』の読解に一つの指針を与えてくれ、読者にさまざまなレヴィナスの読み方を提示してくれることは論を俟たない。 だが、これまでレヴィナス哲学に触れてきた評者の立場からすると、本書を読む際には留意しておくべきことがいくつかあるように思われる。第一に、読解が難解な箇所になればなるほど、内田は肝心のテキストから離れていくように見えることだ。そこで援用されるのは、レヴィナス自身の発言とはいえ、四〇年近く後になされた対談(『倫理と無限』や『暴力と聖性』)やマルカによる評伝であったり、社会的情勢であったりする。ここ一〇年のあいだに質・量とともに飛躍的に増えているレヴィナス「研究」を参照することは著者のスタイルには合わないかもしれないが、少なくとも、『時間と他者』に関しては、内容がかなり重なるメモが第二次世界大戦中の捕虜収容所で綴られており、それらをまとめた『捕囚手帳』は『レヴィナス著作集』第一巻で読めるようになっている。これに言及が一切ないのは、読みの豊穣さを制限する点できわめて残念である(そこには、いわゆる「ホロコースト」以前に、レヴィナスがすでに『時間と他者』を先取りする思想を温めていたことすら読み取れるようにも思われるのだが、この点を内田はどう解釈するだろうか)。いずれにしても、多くのレヴィナスの読み手たちがここ数年で明るみに出してきたさまざまな知見を参照していないため、本書の記述には旧聞に属するものがかなり多いことは指摘されてよいだろう。 第二に、内田は「レヴィナスを解釈するルール」として、「周知のように」という言葉を使わない、分からないことは正直にそう述べる、前言撤回もありうる、という読解のルールを提示している(本書では六八―七二頁)。著者がかねてより表明しているこうした「倫理」的な態度は、評者自身啓発されてきた。だが、著者自身の論述がつねにそうした配慮を徹底しているかについては、本書に限っては、率直に言っていくつか疑念をもたざるをえない箇所がある。著者の「仮説」に過ぎなかったものがいつのまにか「事実」であるかのように断定的に語られていたり(たとえば、「レヴィナスはフッサールに「現象学の基本的なアイディアのいくつかを私はすでに聖書のうちに読んだと思う」と告げに行った」という記述(三九頁))、テキストそのものにはない論点がいわば論点先取的に滑り込んでいたりすることが散見されるからだ(たとえば「第Ⅳ講義の読解」には「応答責任」を主題とする節は四回分続くが、後のレヴィナスの思想で中心的な役を担う「応答責任」概念は『時間と他者』ではまだ主題化されてはいない)。著者の「倫理」的な態度表明に納得した読者は、こうした記述にもその態度が行き渡っていると信じるだろうし、書かれていることは「事実」だとそのまま誤認してしまうだろう。 内田は、「解釈」とは「正しさ」ではなく、読者に新たな読みの可能性を開く「豊かさ」にあると言うが、この指摘は達見だと思う。本書が全体として、目配りの効いた丹念な読解のために、そうした読解可能性をさまざまに開いていることは明らかだ。上に指摘した諸点も、本書に刺激を受けた読者諸氏が関連するテクストの読解へとさらに繰り出してゆくことで、読者自身が解消してゆくものとなるだろう。(となき・ようてつ=立教大学准教授・社会思想・フランス哲学)★うちだ・たつる=哲学者・神戸女学院大学名誉教授・武道家。凱風館館長。東京大学卒。著書に『レヴィナスの愛と現象学』『他者と死者――ラカンによるレヴィナス』『ユダヤ文化論 私家版』など。訳書にレヴィナス『困難な自由――ユダヤ教についての試論』など。一九五〇年生。