忘却と沈黙に抗する者たちの闘い 姜信子 / 作家週刊読書人2022年7月8日号 〈記憶の継承〉ミュージアムガイド 災禍の歴史と民族の文化にふれる著 者:皓星社編集部(編)出版社:皓星社ISBN13:978-4-7744-0760-9 ミュージアムガイド、とタイトルにはある。けれど、この本は記憶をめぐる闘いの書と呼ぶほうがよりふさわしい。「原爆の図丸木美術館」をはじめとして、戦争、マイノリティ、公害、差別、東日本大震災等々に関わる記憶の継承をめざす二三のミュージアムを訪ねた誠実な書き手たちが、観て聴いて問いにまみれて読者に伝えようとしているのは、命の記憶を断ち切る力との現在進行形の厳しい闘いの数々なのだから。 そもそも人間はたやすく忘れる生き物だ。大きな災厄に襲われれば、生き抜くためにその痛み苦しみ悲しみの記憶をみずから消そうともする。心を抉る深い傷に声を失いもする。災厄の果ての死者には、もはや記憶を伝える術もない。なるほど、私たちの生きるこの近代世界は、「忘却」と「沈黙」の上に成り立っているのだろう。ぼんやりしていると、大きな力によって周縁に追いやられ、口を塞がれ、踏みにじられ、記憶を盗まれ、記憶の空白までもが都合よく利用され、ついには「忘却」と「沈黙」の中に封じ込められ、そして世界は何事もないかのようにまわってゆく。 本書において〈記憶の継承〉と言うときの「記憶」とは、そのような「忘却」と「沈黙」に抗する記憶だ。「国境や人種の壁を越え、最も弱い人の立場から」(原爆の図丸木美術館)、「人と人の関係として」(満蒙開拓平和祈念館)、「虫の目で」(東京大空襲・戦災資料センター)、命の記憶を見つめるミュージアムの、さまざまな継承の試みがある。そこには「素通りできない執念」(リアス・アーク美術館)もある。 しかし、後世に伝えるべき記憶を自らの体験として語る当事者がいなくなったとき、その記憶を非当事者たちはいかにして分かち合い、伝えてゆくのか? 非当事者に届かなければ、記憶は失われる。ここで問われているのは、当事者の記憶と非当事者を結び、さらに非当事者から非当事者へと記憶をつないでゆく「回路」や「場」をいかに立ちあげるのかということだ。 たとえば、丸木位里・俊の「原爆の図」への「事実と違う」という声に、学芸員はこう答える。「これは記憶でなく表現」なのだと。被爆者の無数の記憶の断片をもとに爆心地の光景へと迫ってゆく「想像力」がそこにはあるのだと。画家の凄まじい想像力に触れた者たちの心には、あの日爆心地に渦巻いた痛み苦しみ悲しみの感情が流れ込んでくることだろう。その感情によって原爆と戦争に対する想像力が大きく開かれてゆくことだろう。 思うに、非当事者が当事者の記憶を共有し継承する「場」とは、なによりも記憶のうちに息づいていた感情を分かち合う「場」なのではないか。響き合う感情をつなぎ目として、当事者という名の他者の経験に対する想像力を開く「場」なのではないか。記憶の風化とは、記憶と共にあった感情の風化から始まるのではないか。それは、戦没画学生慰霊美術館 無言館の項においても痛切に感じたことだった。 絵がかきたてる感情があり想像力があるならば、「モノと人の記憶をつなげておくこと」(水俣病歴史考証館)によって、かきたてられる感情や想像力もある。東日本大震災の津波による瓦礫を「被災物」と名づけて展示するリアス・アーク美術館では、かつては誰かの暮らしの中にあった「被災物/モノ」にまつわる記憶を、同じく被災者である学芸員が想像し創作して(!)、キャプションとして添えている。それは被災物を観る者への、「感じよ、想像せよ、モノ語れ!」という強烈なメッセージでもある。モノ語れば、きっと、記憶の当事者性という呪縛を越えて、非当事者から非当事者へと記憶をつなぐ「回路」が開かれる。 こうして、忘却に抗する者たちの闘いは果てしなくつづく。本書もまた、そのための大切な「場」であり、「回路」なのである。(きょう・のぶこ=作家)