「ネイチャー」(自然)と「アート」(人為)という二つの概念の間で 加藤有希子/ 埼玉大学大学院准教授・芸術論週刊読書人2022年7月8日号 新しいエコロジーとアート 「まごつき期」としての人新世著 者:長谷川祐子(編著)出版社:以文社ISBN13:978-4-7531-0369-0 環境破壊や気候変動の影響がまったなしになった現在、SDGsやエコロジーを語っておけば、ひとまず道徳的・政治的に誤らないという安直な姿勢がある。しかし本書を読んでわかることは、「エコロジー」という概念が内包する幅広い射程は、決して優等生のそれではないということだ。 編者の長谷川祐子が「まごつき期」と呼んだ人類の危機と迷いの時代に、「新しいエコロジーとアート」は、世界の終わりや、人類が生まれる前の惑星的視座を夢想するラディカルな思考実験だ。この七万年とも一万年とも数十年とも言われる人新世――人為がガイアの中心になった時代――において明らかになったのは、人間の営みが巨大化することで初めて自然の本当の脅威が明らかになったことだろう。 自然は人為がその中に留まり、つつましやかに暮らしていたときは、そこまでの脅威にはならなかったかもしれないが、人為が必要以上の影響力をもってからというもの、温暖化や生態系の破壊などで、人類を破滅や滅亡に導くように牙をむきはじめた。本書の中でも述べられているように、「地球規模で巻き起こるこれらの諸問題に対して、従来通りの私たち人間と自然の関わり方からは、解決の糸口がどうも見えてこない」。 本書はこうした私たちの生死にかかわる喫緊の課題を、キュラトリアルな思考実験で、どれほど解決しえるかを問うという、かなり大胆なものだ。とりわけ学芸員や美術関係者でなければ、展覧会やキュラトリアルな実践が、どれだけ人生の核心に関われるかを疑問に思うかもしれない。オルテガ・イ・ガセットが『芸術の非人間化』(一九二五)で指摘し、アーサー・ダントーが一九六四年に理論化したように、二〇世紀においてアートワールドは日常的な生活実践とは一線を画してきた。つまり芸術と日常生活との間には明確な線引きがあった。しかし今、二〇二二年という時代は、ボリス・グロイスの指摘を待たなくとも、多数の芸術祭やアート思考のビジネス応用などが頻出し、美術館を中心とするアートワールドが融解して、日常生活に溶け出す時代である。この時代には、新しい美学・哲学が必要となるだろう。 キュレーターが数多く執筆する本書には、エコロジーとアートの前線が描かれている。例えば、フランスの庭師ジル・クレマンは一九九九年に「惑星という庭Le Jardin Planétaire」をキュレーターとして開催して、人間がいなくても存在する「惑星」という視座と、人間が作った世界である「庭」という視座が、ともに囲われたものとして交差しうる点を指摘している。 また川内倫子の写真集『光と影』(二〇一四)が取り上げられ、二〇一一年四月に石巻、女川、気仙沼、陸前高田で撮影された写真が、震災の悲惨というよりは、「どことなく、そのときまでに成り立っていた人間世界の足かせから解放されたかのような、自由な空気感すらある」と指摘される。それは東日本大震災以後に進行した世界崩壊の予兆を暗示するものでもある。 さらにAKI INOMATAの《犬の毛を私がまとい、私の髪を犬がまとう》(二〇一四)では、アーティストと犬がお互いの毛で作られたコートを身にまとうが、それは単なる動物愛護の表現ではなく、動物性愛などの難しい問題にも接していることが論じられる。その事例として、濱野ちひろの『聖なるズー』(二〇一九)を挙げ、鳥の巣を形成しているシダ植物と「性交」し、最終的にそれを食べてしまう男性がいることを述べる。 その他、数多くのアーティストやキュレーターの思考実験がこの書の中では紹介されるが、それは私たちの生活の核心にどれだけ関われるのだろうか? 本書にも寄稿しているブリュノ・ラトゥール――京都賞の受賞者でもある――は次のように述べる。「展覧会というものは、きわめて非現実的なものである。他の場所では考えられないような組み合わせで集められるさまざまな物、インスタレーション、人々、議論の、高度に人工的な集合体。そこは時間や空間、現実性といった普通の決まりごとから解放されている。そのおかげで、展覧会は実験のための〔……〕いま現在起きている表象の危機に取り組むための、理想的なメディウムになっている」。 たしかにキュラトリアルな実践のその「非現実性」こそが、現実や日常生活への力となる可能性がある。長年の間続くデフレや緊縮によって、現在の日本社会は、「実用性」、「現実性」、「有用性」、「効率」といったものに囚われ、汲々としている。そうした中で、「普通の決まりごとから解放されている」アートやキュレーションの役割は、昨今、一層大きくなってきているのではないか。 ちょうどこの記事を書いている二〇二二年六月、長谷川祐子がキュレートした、「新しいエコロジーとアート」展が東京藝術大学大学美術館で、そしてリニューアルした国立西洋美術館では「自然と人のダイアローグ」展が開かれていた。ヨーロッパよりは環境問題に関する取り組みが遅い日本ではあるが、しかし、この国でエコロジーについて問う意味は大きいだろう。 本書にも寄稿しているエマヌエーレ・コッチャは、二〇〇九年に伏見稲荷を訪れたときに『植物の生の哲学』(二〇一六)を構想したと語っており、また同じく寄稿者であるアンゼルム・フランケも「おそらく日本を唯一の例外として、近代はあらゆるところでアニミズムと衝突する」と述べ、日本社会が自然をはじめとした「環境」にも生命を認めることを改めて指摘している。 テクノロジー化、グローバル化が進んだ現代、私たちは古き良き日本に戻ることもできないし、また「ネイチャー」(自然)と「アート」(人為)を対立概念として自然を客体化してきた西洋文明にも同化はできない。そうした中でどういう道筋がありえるのか、「エコロジーとアート」という本来は相いれない二つの概念を正面突破する本書は、その考えるヒントを豊富に与えてくれるに違いない。(かとう・ゆきこ=埼玉大学大学院准教授・芸術論) ★はせがわ・ゆうこ=キュレーター・東京藝術大学大学院教授・金沢21世紀美術館館長。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。イスタンブール、上海、サンパウロ、シャルジャ、モスクワ、タイなどでの国際展を手がける。著書に『破壊しに、と彼女たちは言う』など。