著者それぞれの想いの差から生じる文体の違いにも注目 好井裕明/ 社会理論・動態研究所所員・社会学・エスノメソドロジー週刊読書人2022年7月8日号 昭和五〇年代論 「戦後の終わり」と「終わらない戦後」の交錯著 者:福間良明(編)出版社:みずき書林ISBN13:978-4-909710-21-5 太平洋戦争敗戦後七七年が過ぎ、昭和という時代も多くの人にとって「歴史」となっている。十年ごとに区切り、一九六〇年代、七〇年代、九〇年代などの特徴を論じる研究はこれまで多く行われてきた。六〇年代から七〇年代の「政治の季節」。それが終焉した後、九〇年代以降の「バブル景気」「バブル文化」。編者が指摘するように「政治の季節」が七〇年代できれいに終焉し、「消費文化」が八〇年代に突如として始まったわけではないだろう。その間をつないでいる昭和五〇年代とはいったいどのような時代だったのだろうか。本書は、一五名の気鋭中堅、若手研究者が自らの専門領域に投錨しつつ、この時代の特徴を自在に論じた分厚い論集だ。六四〇頁を超え、文字通り分厚いのだが、彼らが論じる中身も深いものだ。 「鶴田浩二と『男たちの旅路』」「山田太一の「ホームドラマ」を手がかりに」「「阿部定ルネサンス」と昭和五〇年代」「昭和五〇年代の青年海外協力隊とメディア」「本土―沖縄のヒエラルヒーの再生産」「三つの国家と「定住」「帰化」をめぐる葛藤」「『二つの祖国』『山河燃ゆ』論争と〈日本人〉の境界」「身体のフォーディズム」「『愛と誠』と「メディア論」的劇画論」「情報革命の旗手とオタクのあいだ」「スポーツ雑誌『ナンバー』に投影された「教養」への愛憎」「『スクール・ウォーズ』の教育論」「「成長」を描く『機動戦士ガンダム』」「「自分探し」と「メディア・イベント」のはざまで」「「ポスト・キャッチアップ型近代」の中年文化」。あえて各章の副題をあげてみた。沖縄海洋博が引き起こした問題、『季刊三千里』という在日雑誌言説、昭和五〇年代の美容言説、マイコンブーム、国民的英雄・植村直己、大衆歴史雑誌などをさらに補足すると各章でどのような具体的文化項目が扱われてるのかが明確にわかるだろう。 「戦後」への疑念、ナショナリティの揺らぎ、「趣味」の変質、修養と教養の残影と四部構成がさらに各論をどのように読んでいけばいいかを導いてくれる。各章はそれぞれ読ませるのだが、子どもや青年として実際にその時代を体験してきた著者の文体と過去の歴史として振り返り分析する若手研究者の文体には明らかに違いがあり、そこから感じ取れる想いの差も興味深い。アニメや特撮が好きな私としては、野上元の『機動戦士ガンダム』の解読に嵌まってしまった。昭和三一年生まれの私は、いわば「ウルトラ世代」であり、子ども時代ウルトラマンやサンダーバードから溢れ出る大文字の正義や人間の価値を素朴に信奉していた。そしてそこでは人間のまっすぐな「成長」が是とされていたのだ。野上はガンダムアニメの世界を執拗なまでに微細に掘り下げ解読し、いわば特異な形で描かれる「成長」がもつ意味や意義を鋭く提示してみせている。「ガンダム好き」だからこそできる〝力業〟だろう。福間が見事に整理して見せる「大衆歴史ブーム」も興味深い。西洋に追いつき追い越せの先が見えてきたとき、私たち日本人はやはり〝自分たちが生きてきたかつての姿〟に新たな光を求めたのだろう。現在も歴史ブームは続いているが、その始まりは教養主義や修養が色褪せてきた時代に端緒があったのだ。ただ本書を読み、改めて思うことがある。西洋という「外」に準拠して自分探しをすることに限界を感じた日本人が歴史を振り返り、「内」から新たに自分探しをしようとしたとき、なぜ太平洋戦争も含めアジアでの戦争を徹底して反省し、そこから自分が準拠できる確固とした「不戦の意味」を見出すことができなかったのだろうかと。かつての戦争をきちんと反省し総括できていない日本人、日本文化とはどのようにしてできてきたのか。こうした視点で見直せば、新たな興味深い「昭和五〇年代論」が書けるのではないだろうか。(よしい・ひろあき氏=社会理論・動態研究所所員・社会学・エスノメソドロジー)★ふくま・よしあき=立命館大学産業社会学部教授・歴史社会学・メディア史。京都大学大学院博士課程修了。著書に『「働く青年」と教養の戦後史――「人生雑誌」と読者のゆくえ』など。一九六九年生。