自分の立ち位置を五つの章から確かめる 福田安佐子 / 国際ファッション専門職大学助教・表彰文化論・ポストヒューマン 週刊読書人2022年7月22日号 ポストヒューマン・スタディーズへの招待 身体とフェミニズムをめぐる11の視点 著 者:竹﨑一真・山本敦久(編) 出版社:堀之内出版 ISBN13:978-4-909237-71-2 ポストヒューマンとは何か。おそらくこの言葉からすぐさま想起されるのは、SF作品に登場するアンドロイドや遺伝子操作の末に生み出される「理想の身体」といったイメージだろう。だが本書が問うのは、そうした近未来のテクノロジーそのものではない。本書によれば、ポストヒューマンとは、すでに我々とともにあるものである。つまり、現代社会の中にある種々の問題をめぐってふと「人間」の規範や条件をかえりみた際に、これまでの前提や観念では立ち行かず、新たな枠組みが必要となることに気づく。そのような瞬間に、ポストヒューマン・スタディーズは現れてくるのだ。 例えば、ルネサンス以降の近代人が慣れ親しんできたウィトルウィウスの人体図が、「人間」そのもの、または人文学や「知」のモチーフとして使われてきたという事実自体に、白人中心主義や男性中心主義が潜んでいる、という指摘は今日では目新しいものではない。しかしながら、仮にその中央の男性をたんに女性へと置き換えた「イメージ」を多くの人が持つようになれば、社会は良くなったと言えるのだろうか。それは、余計な歪みを生み出すだけではないだろうか。むしろ考えるべきは、そもそも「女性」や「男性」を決定している基準とは何なのか、ということである。男性、ないし女性について抱かれるイメージとは何か。そのイメージは、他者としての異性をイメージする際と、自己イメージを含む同性をイメージする際とで、何が異なるのか。あるいは女性の社会進出を考える際に、それを本当に阻んでいる要因とは何か。本書が我々に突きつけるのは、これらの問いである。 本書の最大の特徴は、いわゆる研究者として主に思想の領域から、「ポストヒューマン」や「フェミニズム」について探究してきた人々と、より実践的な社会活動を行う中で、「人間とは何か?」という問いにぶつかった人々の経験に基づく語彙とが重なりあっているところであろう。本書には、社会のあらゆる活動に潜む政治的思惑であったり、自らの内に潜む偏りの発見であったり、あるいは規範から自由になろうという行動自体がまた別の規範のうちに絡めとられるアポリアであったりという、「ポストヒューマン的窮状」が明確に言語化されている。 全体の構成を見ていこう。まず、第一部において検討されるのは、オリンピックにおけるLGBTQ+問題の取り扱いや、トランスジェンダー・アスリートの登場を通して浮き彫りになる、スポーツ界における男女の身体的規範の強固さである。翻ってそこから浮かび上がってくるのは、その規範自体が、自然な身体というよりもスポーツや競技なるものに合わせて数値化されたものに過ぎないのではないか、という疑問である。 第二部では、フェムテックをめぐる議論が展開される。フェムテックとは、「女性の健康に関する課題をテクノロジーで解決するサービスやテクノロジー」(54頁)を指し、月経周期管理アプリからプレジャートイまでを含む。これらは、単に女性の生活を快適にするのに役立つ、というだけでなく、なかったものとされてきた「女性の性欲」を女性自身の手のうちに取り戻すことを可能にする。しかしここにもまた、女性を新たな市場とみなし、金銭や情報の収集が目的となるといった問題がある。 第三部ではまず、女子高生の撮るプリクラにおいて、そこに映る彼女たち自身が好む、加工された自身の顔のイメージの変遷が扱われる。それは、異性間の眼差しを意識しない、自分をどのように見たいか、何を自分の顔とするか、という理想像の変遷でもある。ここではさらに、異性愛の代替物として生み出された「ラブドール」へと、あえて変身するという経験についても語られる。それは、コスプレや異性装とも異なる、無機物になるという経験である。そこには、異性愛的な眼差しだけではなく、人間そのものからも逃れようとする欲望がほの見えるだろう。 第四部が取り組むのは、不妊治療や出生前診断という技術をめぐる生政治的な問題である。不妊治療(そもそも「治療」という語彙が適切かという問題は措くとして)は、子どもをのぞむひとにとってはなくてはならない技術である。だが、高額な治療代のみならず、適切な遺伝子や卵子・精子を必要とする、という意味において、あらゆる「選択」を必要とする。それはともすれば、「生きるに値する生」を選別するという行為と緩やかに結びついてくる。 最後に第五部では、「ポストヒューマン/イズム」という言葉をいわば解体し、「ポスト」とは何か、ポストヒューマンないしポストヒューマン・スタディーズ(人文学)とは何を指し示すのか、ポストヒューマンの時代において人文学は何を研究すべきか、といった問題が問い直される。そもそも「ポストヒューマン」という用語の意味や思想史的背景から知りたい読者には、第五部から読み進めることをお勧めする。 極私的な話ではあるが、私が修士論文を執筆していたときに本書があったならば、私の人生(少なくとも研究者としての歩み)は大きく異なっていただろうと思う。恥ずかしながら私は修論執筆の際、「ポストヒューマン」を研究対象に、と決めたところまではいいが、それが関係する領域の広さから、何から取り上げるべきか、困り果ててしまっていた。そのくらい私たちの身のまわりには「ポストヒューマン」的なものや「ポストヒューマン的窮状」が氾濫しているのである。 本書は、具体的な社会事象にいかにアプローチし、そこからいかにクリティカルな議論につなげるべきかを明快に示してくれている。また、「ポストヒューマン的」な状況において、自分が一体どのような思想的立場にあるのか、あるいは現状の何に違和感をもち、「ポストヒューマン」という言葉のどこに惹かれているのかを教えてもくれるだろう。(ふくだ・あさこ=国際ファッション専門職大学助教・表彰文化論・ポストヒューマン)★たけざき・かずま=明治大学情報コミュニケーション学部特任講師・カルチュラル・スタディーズ。★やまもと・あつひさ=成城大学教授・スポーツ社会学。