冷徹かつやさしい視線で「人間」を見る 山田文 / 翻訳者 週刊読書人2022年8月5日号 絶滅へようこそ 「終わり」からはじめる哲学入門 著 者:稲垣諭 出版社:晶文社 ISBN13:978-4-7949-7309-2 わたしたち人間はもう死んでいる。 数十万年の単位で見れば人類はほぼ確実に絶滅するし、数十億年の単位で見れば地球そのものが存在しなくなる。それだけではない。理性によって自然界を手なずけることで恐怖を克服し、万物の霊長を自負してきた人間は、みずからがつくりだした機械、もの、制度の奴隷となっている。衝動的で直接的な暴力は抑えてきたが、それは計画的で間接的な暴力を用いることによってであり、みずからを家畜化することによってだ。ヨーロッパ近代が想定してきた強く自由で主体的なプロメテウス的人間はすでに死んでいる。あるいは瀕死状態にある。 これは危機なのか。なんらかのかたちで「人間」を復活させなければならないのだろうか。 本書の著者はそうは考えない。「知性を駆使して、動物界の頂点に立つと自負してきた人間のプライドと、地球と自然を保護するガーディアンとしての人間の責務から肩の力みを、緊張をとにかく抜きたいのです」。 あからさまな暴力が減った世界でも、わたしたち一人ひとりの生きる苦しみはなくなっていない。「人間の心が自ら作った鉄鎖の呻きを、私は聞く」 産業革命期のロンドンについて書いた詩でウィリアム・ブレイクはいう。わたしたちはみずからつくりだしたものやことに絡めとられ、日々呻きながら生きている。出口があるようには思えず、希望もない。だからといって、強く、主体的に、肯定的に生きろというメッセージは──かつての「人間」を回復しろという主張は──、鉄鎖をさらに身心に食いこませ、呻き声をいっそう大きくさせるだけだ。 ではどうすればいいのか。「絶滅」を肯定し、それを見つめてみようというのが著者の提案だ。「どうして絶滅の響きには、こんなに魅力があるのでしょうか。ほっとして、肩の荷を下ろす効果があるように思えます」。わたしたちはやがて滅びゆくものであること、それを受けとめ、そこから出発する。ここにはたしかに解放的なものがある。鉄鎖の縛りを緩める何かがある。「絶滅を思考することで僕たちは、明日一日をまた生きることが、生きてしまうことができるかもしれない。しかも、絶妙な力加減で」。 そういった視点から本書は、「人間」なきあとの人類が直面している条件、ゆっくりと絶滅へ向かうやさしくも残酷な世界の条件を腑分けし再解釈していく。機械は道徳をふりかざす人間よりもやさしい、ニーチェの超人に代表される男性的「人間」の終焉はむしろ解放である、といった肯定的な論点も示されるが、全般に現状が美化されることはない。よりよい状態を志向することによってさらなる苦しみを生む『啓蒙の弁証法』的な人類の条件が真正面から見据えられる。そこに通底しているのは「苦痛をできるだけ回避しながら絶滅のプロセスを歩んでいく」という冷徹ながらもやさしい視点である。 本書は現代のコンテクストで、きわめて自覚的に現代の形式にのっとって書かれているが、瀕死状態にある「人間」の側に最後の軸足を置いてもいる。それは哲学という営みであり、思考という人間の能力である。「人類の終わりさえも含みこむ、人間だけが考えうるような希望を見出す以外の道があるとも思えないのです」と著者はいい、それがこのプロジェクト全体を支えている。人類が絶滅を宿命づけられている、あるいは人間がすでに絶滅しているとしても、著者はまったき無意味と価値相対主義に流されることを拒む。主体性をもつことがもはや不可能である世界のなかでそれに抗い、生きるのに必要なぎりぎりの個と主体性を哲学によって確保しようとする。それが最終章の村上春樹論、「はぐれ官僚」としての「僕」に収斂していく。かたちも時代も大きく異なるが、そこに著者が専門とするフッサールら、一九三〇年代に「人間」の危機と向きあった哲学者との連続性を見ることもできるだろう。 倫理というと息苦しく、矜持というと堅苦しい。しかし、生きづらいいまを崩れることなく、しかし力を抜いて生きる視点を本書は与えてくれる。著者を信頼して読みすすめられる一冊であり、読み終えたときには、このことばを胸に抱きしめたくなるにちがいない。「絶滅へようこそ」。(やまた・ふみ=翻訳者)★いながき・さとし=東洋大学文学部教授・現象学・環境哲学・リハビリテーションの科学哲学。著書に『大丈夫、死ぬには及ばない』『壊れながら立ち上がり続ける』 など。一九七四年生。