この本を「発禁」にするに足る論理をわたし(たち)は鍛えてきたか 川口好美 / 文芸評論 週刊読書人2022年8月12日号 笙野頼子発禁小説集 著 者:笙野頼子 出版社:鳥影社 ISBN13:978-4-86265-962-0 本書『発禁小説集』が「МtFトランスジェンダーやノンバイナリーのアイデンティティに脅威を与えるとみなされても仕方のない部分」を含むものであると岡和田晃が文芸時評(『図書新聞』二〇二二・六・一八)で、本書所収の小説「質屋七回ワクチン二回」で「何より問題なのは、トランス差別への批判や権利の擁護が、小説ではあたかも世界的に広まる陰謀であるかのように描かれていることである」と水上文が文芸季評(『文藝』二〇二二春号)で、それぞれ述べている。また、李琴峰が「差別に加担しないためのインターネット・リテラシー」(『シモーヌ vol.6』)において、笙野のエッセイ「女性文学は発禁文学なのか?」に含まれる事実誤認・事実無根を指摘している。大事な事柄がわかりやすくまとめられているので読んでほしい。誰でも簡単に自己申告で法的性別が変更可能になる、というのが笙野が恐れる「セルフID法」のイメージであるようだが、マイノリティーへの差別を禁じる基本的な制度のはるか手前で尻込みしているのが現実の日本の状態だ。その前提を踏まえずマイノリティーを悪魔化し、自分こそ消滅の危機に瀕する少数者だと言い募ることは非論理以外のなにものでもない。 LGBTQの権利獲得――それは、すでに多くの蓄積と成果を持つ女性の権利獲得の歴史(もちろんこちらも現在進行形であるが)と不可分のものとして互いに照らし合いながら進展してきたし、これからも進展していくはずである。もしも笙野にそのようには感じられない、見えない、信じられないのだとすれば、それは笙野の一見強いフェミニズムに論理の面で致命的に弱い部分が存在していたことの証拠である。「未成年の頃から、体は女だけど心は男、そういうフィクションに縋って私は生き延びてきた。男が女をみる目で自分を見られたくなくて。普通に男言葉で「オレ」と言って、男物を着ていて、でもズボンを履いていてもばれれば痴漢には遇う。結局安心な場所では女ものも着てみている」(「前書き」)。こういう切実な生存の事実をモトに書き継がれてきた小説や論争文に、弱く甘い非論理が存在していたことの証拠である。だが、取り乱しが不可避な局面を自分のなかにいつまでも生々しく保持し、しかもそこにおいて論理的であろうとすることだけが〝ヘイト〟とは異質の強度と深度をそなえた〝怒り〟を可能にするはずだ。もちろん批判は即座にわたし(たち)に跳ね返ってくる。これまで笙野に応答した男性文学者の言葉に論理として甘く弱いところはなかったか。この本を「発禁」にするに足る論理をわたし(たち)はじゅうぶんに鍛えてきたか。 本書で模範的な書き手として引き合いに出される中野重治は「文学的仮構を使わずしてはけして暴く事の出来ないその正体を暴き」などと金輪際書かなかったし、「そしてただもう、ただただもう、そうです私たちは呪われている、と言いたいのである。しかもそれは恐怖の黒魔術であると。は? エビデンスはだって? うむ、つまりこれは小説なので(だからすごいことがさらっと言えるのさ)」などと口が裂けても言わなかった(「引きこもりてコロナ書く」)。「文学的仮構」や「小説」に頼らなければ打ち倒せない敵、中野はそんなものにひとかけらの関心もなかった。どんな状況でもただただ〝事実に立って〟敵を名指した。怒りの尖端で彼の論理は明晰だった。「芸術家は、彼の作品なぞを必要としないような美しい生活が人間の世界に来ることを、そしてそのことのために彼の作品がその絶頂の力で役立つことを願うべきであろう」(「素樸ということ」)。そういう日が来ると信じていたから、それができた。「しかしなるであろうか/しかしなるであろう」(詩篇「その人たち」)。非論理から悪意に落ち込むことは容易い。「美しい生活」を論理的に信じることがむずかしいのだ。(かわぐち・よしみ=文芸評論)★しょうの・よりこ=作家。八一年「極楽」で群像新人文学賞受賞。『なにもしてない』で野間文芸新人賞、『二百回忌』で三島由紀夫賞、「タイムスリップ・コンビナート」で芥川賞、『幽界森娘異聞』で泉鏡花文学賞、『金毘羅』で伊藤整文学賞、『未闘病記』で野間文芸賞。一九五六年生。