報道されない苦悩や葛藤、リアル 桃井和馬 / ジャーナリスト・恵泉女学園大学人文学部教授 週刊読書人2022年8月19日号 紛争地のポートレート 「国境なき医師団」看護師が出会った人々 著 者:白川優子 出版社:集英社クリエイティブ ISBN13:978-4-420-31094-9 強者の歴史が表舞台の正史として記され、国家間の戦争がニュースの中核となる昨今。だが、その背後にはいつも、勇ましい戦争報道では扱われることが少ない市井の物語がある。本書は、「国境なき医師団(MSF)」の看護師として一二年以上働き、世界の紛争地を一八度も訪れた日本人女性だからこそ触れることができた、現地の人々の苦悩や葛藤が記されている。それはまた人道援助に全精力を注ぎ込む医師や看護師の、等身大の「肖像画=ポートレート」でもある。 二〇一一年に看護師として派遣された最悪の状況下の南スーダンでは、襲撃が始まれば、その都度「バンカー(防空壕)」に逃げ込み、飲み水が底を突いた時には、著者自身、戦死した遺体が流されていたナイル川の水を飲んで生き延びたという。 二〇一二年に派遣されたイエメンでは、新大統領の就任を機に内戦が激しくなり、アルカイダ系過激派武装グループのテロと、それに対抗した政府軍の軍事行動も過激化していた。MSFの病院の救急室は、運び込まれた負傷者で埋め尽くされ、「三日間ほど全く眠らずに手術を続けた」。手術が途切れた一瞬を狙いシャワーを浴びていると、当たりが凄まじい爆音に包まれ、シャワー室の中まで焼け焦げた臭いが入り込んで来たという。だが著者は、その場にへたり込んだまま、薄れそうな意識の中でシャワーを浴び続けたのだ。体内には、身体を動かす僅かのアドレナリンも残っていなかったからだ。 二〇一七年に派遣されたシリアでは、過激派組織「イスラム国(IS)」が埋めた地雷によって負傷者が急増していた。運ばれて来るのはいつも数人から一〇人以上からなる家族や親族のグループで、両足が切断された重傷者のほとんどは成人男性だった。激戦地から地雷原を越えて避難する場合、一族で作られた集団の先頭を一家の主である男性が歩き、その足跡をなぞるようにして、女性や子どもたちが一列になって歩いたからだ。 本書で描かれているのは、日本の生活からは到底想像できない紛争のリアルだ。しかしそれは過酷なだけではない。 「世界一大きな監獄」とも称されるパレスチナ・ガザ地区の市街地には、激しい空爆で壊滅的な被害を被った家屋の裏で、営業を続けるハマムが存在していたという。ハマムとは古代ローマから続く公衆浴場で、その伝統を引き継いだオスマン帝国時代、中東全域に伝播し、今に続く風習である。汗を流すだけでなく、おしゃべりをしたり、果物を分け合う、いわば同性同士の憩いの場で、ガザでは、階段を降りた地下空間に作られたハマムに、腰布を巻いただけの女性たちが三〇人あまりいたという。 イエメン女性たちが着る「アバヤ」と呼ばれる黒いマント状の布地にも、ソデやスソ、襟元などに、それぞれ思い思いのデザインや刺繍が施されていた。それだけでなく、男性が見ることができないアバヤの下は、ジーンズにTシャツ、ミニスカートやタンクトップなども珍しいことではないらしい。 下半身麻痺になっていた元ゲリラ部隊の兵士が、著者の看護に依存するようなこともあった。その時には、動かなくなった下半身のケアだけでなく、心のケアも続けることになったという。 出会いと別れを繰り返すのがMSFの医療現場だ。イエメンでは、銃撃や爆弾、空爆の被害で昼も夜も構わず運び込まれる老若男女の被害者の対応を続けながら、しかし同志でもあるベテランの日本人男性医師と、心の通う時間も過ごしたという。「妄想は自由」と、過酷過ぎるその現場を、頭の中だけでは「甘いバカンス」のように思い描くことで「現場」を乗り切ったのだ。そうでもしないと、連続する張り詰めたる緊張で、心は音を立てて崩れた可能性もある、と読み手は行間から感じてしまうのだ。 世界有数の緊急援助団体としての活動を続けるMSFの物流センターは、フランスの国際空港に隣接している。ここには医療品や医療機器など二万点もの物資がすべて通関手続き済みで、一〇〇万トン規模の物資を二四時間以内に世界各国に送る事が可能だ。そこに、世界有数の緊急医療団体の組織としての厚みを感じる。 本書は、長年、混乱する現場で最前線の医療に携わってきたひとりの日本人女性看護師の、現場レポートであり、同時に偽らざる心のポートレートなのだ。(ももい・かずま=ジャーナリスト・恵泉女学園大学人文学部教授)★しらかわ・ゆうこ=国境なき医師団(MSF)に所属する看護師。手術室看護師として、シリア、イラク、イエメン、南スーダン、パレスチナ(ガザ地区)、ネパール、アフガニスタンなど、紛争地や被災地を中心に活動。二〇一八年以降はMSF日本事務局に採用担当として勤める。著書に『紛争地の看護師』など。