最新の関連文献を綿密丁寧に読み込み追究分析 芝健介 / 東京女子大学名誉教授・ドイツ近現代史 週刊読書人2022年8月19日号 アウシュヴィッツへの道 ホロコーストはなぜ、いつから、どこで、どのように 著 者:永岑三千輝 出版社:春風社 ISBN13:978-4-86110-805-1 本書はホロコースト(ナチ体制によるヨーロッパ・ユダヤ人の大量虐殺)について、大学叢書の専門教養テキストタイプとしては内外最新の関連文献を細大漏らさず綿密丁寧に読み込んで総合的に追究分析した、問題の根深さ、類を見ぬ重さを再認識させる労作である。 ヒトラー第三帝国の思想と行動を、ユダヤ人絶滅の狂気ととらえるのは、実態を見誤るものであって、ユダヤ人殺戮はそれ自体独立した目標ではなく、ドイツ民族帝国主義(ナショナリズムと帝国主義の融合)の政策体系の一手段と位置づけて初めて歴史の流れが把握できるという年来の立場が本書にも貫かれているが、ユダヤ人迫害の分析対象地域がこれまでのソ連中心の御自身の大著と比べても、オーストリア、チェコ、メーメル、ポーランドといった中小の併合占領地域に重点がおかれており、しかも他の類書や研究にもそうそう見られないような密度で詳解されている。そこに、今回の新著の第一の特徴が見られるといえよう。これは著者の知人で著者による訳稿(「ホロコースト研究の歴史と現在」)もある史家ウルリヒ・ヘルベルトたちの編集による浩瀚な独語公刊史料集『ナチ・ドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人の迫害と虐殺 一九三三~一九四五年』全一六巻(二〇〇八~二〇一六年、オルデンブルク出版社、未邦訳)を、縦横に著者が先駆的、効果的活用を果たしえた本書第二の特質とも大きく関わっていると思われる。 第一次世界大戦開戦時と比較し、第二次世界大戦開戦(ナチ・ドイツ軍の対ポーランド侵攻)時の一九三九年九月、ドイツ住民の間に戦争熱狂がみられなかったのは今日よく知られているが、次のようなポーランド・ユダヤ人の状況については、本書ではじめて知るという読者も少なくないのではなかろうか。一九四一年春、ナチ国家指導部と国防軍が対ソ戦準備を開始して数か月、ポーランド・ユダヤ人がそれを直接肌で感じなければならなかった大量難死状況や、にもかかわらず独軍の対ソ攻撃開始の報が当初多くのユダヤ人の間によろこびと、期待先行の「ドイツ敗北」の噂の広まり、ソ連軍勝利後の将来への希望さえ引き起こしたというリアクション、その後の幻滅、戦闘続行、独軍のための冬季衣類供出大キャンペーンの下なけなしの毛皮の徹底的押収等含むゲットー住民の酷薄な日常と随伴生活感情が微細に描出されている。 絶滅政策への「大転換」にかかわる根本決定がいつだったのかという問題そのものについては、四二年一月二〇日のヴァンゼー会議で決定されたという誤解が日本含め世界の人口に膾炙した見方としてまだかなり一般に通用しているといっても過言ではない。ヒトラーが対米宣戦布告を断行した直後の一九四一年十二月半ばというのが、本書でも再確認されている著者の立場であり、著者によれば、欧米の研究の今日的到達点もそこにあるとされているが、ヴァンゼー会議が、「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」を既定の方針とし、それを前提とした、権限めぐる確認調整を重点としていた点、ヴァンゼー会議が当初は十二月九日開催予定だったにもかかわらず、対米宣戦布告があったがために延期されたという事実そのものにこだわるならば、十二月半ばという時期はいま少し前倒しすべき余地はなおあるのではなかろうか。ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅のナチ政策決定過程をめぐる構造と機能の問題自体、まだ掘り下げられて然るべき諸点は依然残されていると思われる。(しば・けんすけ=東京女子大学名誉教授・ドイツ近現代史)★ながみね・みちてる=横浜市立大学名誉教授・ドイツ現代史。著書に『独ソ戦とホロコースト』など。一九四六年生。