「雑」の豊かな、面白さを模索し遊動する雑誌 中村邦生 / 作家 週刊読書人2022年9月2日号 代わりに読む人0 創刊準備号 著 者:友田とん(編著) 出版社:代わりに読む人 ISBN13:978-4-9910743-0-1 楽しみな雑誌の登場だ。しかし、皮肉な天の配剤であるはずはないだろうが、まずは私が『代わりに読む人』の〈代わり〉の読者役を務めることになった。ディープな昭和の人間が新雑誌の書評などしていいのか。何しろ思い出すことが古い。「創刊準備号」ということで真っ先に脳裏に浮かんだ雑誌は、一九六九年の『海』(中央公論社)の「発刊記念号」なのであるから。文芸総合誌と銘打った『海』は、誌名のとおり視野は広く、「世界史的な同時性という観点に立ち、インターナショナルな新しい日本文学を創造していきたい」という趣意だった。この記念号は「準備」的な試みとして、ル・クレジオ、ビュートール、ナボコフ、アップダイクら世界の三十名余の文学者を対象に文学の現況をめぐる長文のアンケートを実施した。『海』はとっくに廃刊になったが、私自身はどちらかと言えば、この『海』の趣意に沿った方向で文学を考えてきた人間だ。ただし、かつてほど雑誌への関心はない。 ところが、『代わりに読む人』を読む機会を得て、ディープな昭和人の気分は、意外なほどに昂った。まさしく雑誌の「雑」の実践、その新鮮さが横溢しているのだ。書き手は小山田浩子のようなプロフェッショナルから(プロでも特等席など設けない)、会社員、農家見習い、物理学者、お菓子屋など、いわば多くの兼業ライターたちが原稿を寄せている。すべてが修辞に長けている文章ではないかもしれないが、それぞれの文の思考と感覚の鮮度は高い。このことは書評欄にも指摘できることで、「2021年に読んだ本」として、新刊と一緒に樋口一葉『大つごもり・十三夜』が入っていて、それがむしろ新鮮な気分を誘う。また、イラストも本文へ説明的な介入を避けつつ大胆に挿入され、その編集センスも魅力的だ。 一見、若い世代に向けての文芸誌に思えるが、そうとも言えない。そもそも、世代論に基づく読者層の想定などは、攪乱するのが雑誌の役目なのだと私は思う。何しろ次号から蓮實重彥論が今回の準備稿で予告されているのだ。文芸評論家やフランス文学者の書く論なら、読む気にならないが、『スピッツ論』の書き手によるものとなれば、斬新な蓮實論になると期待できる。「これから読む後藤明生」の各論も嬉しい驚きで、しかもこの作家をめぐる評論文は今後も連載されるという。後藤明生の〈読む=書く〉の表裏一体という考え方は、この雑誌のコンセプトに重なっているので、この企画の継続は納得できる。 発刊の大仰な身振りはなく、新雑誌を出す今日的な必然性を見据え、ある軽やかなプロット(企図)と困難さに自覚的で冷静なところも見て取れる。面白いと思うことに、自在に接近し、引き寄せていけばいい。好みというものは、しばしば展開を欠いて、似たようなことばかりに反応する自己反復性があるが、そんなことなど発行者の友田とん氏は先刻承知だろう。「少しでも自分の閉じた関心空間に穴をあけたかった」と述べているから。外山滋比古の古典的名著『エディターシップ』を持ち出すまでもなく、そもそも編集という営みは、どのようなテーマを切り取り、それを何と結びつけるか、切る+結ぶ=化学反応の不断の運動体としてあるはずだ。 〈代わりに読んだ者〉として付け加えたい感想なのだが、今回の「準備」号というユニークなテーマは、今後どこかのページを確保して続けるのも面白い試みではないか。数年前、ある小さな研究会で、総テーマをあえて「下ごしらえ」にしたところ、材料のみ、未完原稿、アイデアの列挙などが寄せられ、いつになく議論が活況を呈した。まだ方向性に揺れのある、まさしく揺籃期の思考だからこそ、たがいの発想の途上感が意外な効を奏し、刺戟的だったのだと思う。これからも「雑」の豊かな、可笑しさ、面白さを模索し遊動する雑誌であることを期待したい。(執筆者・二見さわや歌、陳詩遠、小山田浩子、伏見瞬、田巻秀敏、オルタナ旧市街、近藤聡乃、橋本義武、わかしょ文庫、柿内正午、海乃凧、太田靖久、佐川恭一、鎌田裕樹、毛利悠子、友田とん、蛙坂須美、東條慎生、haco、コバヤシタケシ)(なかむら・くにお=作家)