死者と生者とのあわいから滲み出るもの 八木寧子 / 文芸批評 週刊読書人2022年9月9日号 夢の家 著 者:魚住陽子 出版社:駒草出版 ISBN13:978-4-909646-55-2 二〇二一年八月に急逝した魚住陽子。彼女が遺した作品から六つの短編を収めた『夢の家』には、生者どうし、あるいは生者と死者の愛憎や魂の往還が描かれ、静謐で端整な筆致のなかから「本物の孤独」や「狂気の一閃」が滲み出る。 ふた回り以上若い画家の女性と過ごしたわずかな蜜月の日々に執着し、狂気を剥き出しにする老年男性。手紙、独白のかたちでそれぞれの抑えがたい激情を綴る表題作「夢の家」は、絶望と希望が明滅し不思議な諧調を奏でる。 死者であるひとつ違いの妹の「気配」と共に生き続ける姉が、新たに紡がれる縁に導かれつつも、より濃く、深く妹の生と死に寄り添ってゆく「シェード」。 やはり死者である母親が、独り身の娘のノートに現れ、薄れゆく記憶をたぐりながら在りし日の家族を再現してゆく「萌木色のノート」。とうに死者である夫、死の際にある息子と一体となり、死者たちが音もなく立ち去る刹那、哀切と、儚く甘美な陶酔に襲われる。 また、かつての師に、謙虚さを装いつつも甘え、縋る手紙を送る女性と、その音信に違和と不快を抱きながらも突き離せずに返信をしたためる老年女性の、どこかちぐはぐな往復書簡とその顛末を追う「郭公の家」。そして、妻を亡くした夫が、記憶の時間と現在とを行き来するなかで想起される事々を淡々と呟く、無常にひたされた日々を半ば観念的に記す「旅装」。 いずれも、去りゆく者と残される者、あるいは死者と生者とのあわいに立ち現れる様々な相貌を描出するが、その陰翳は陽炎のごとく彼我を移ろい、滲み、汽水域のように境界は判然としない。 一方、母校の創立記念誌に寄せられた「物置に蝶が来ている」は少し趣を異にし、新聞部を舞台に「言葉」を獲得して世界をひらいてゆく女子高校生たちを瑞々しく写しているが、この一編にもやはり、魚住文学の核のひとつと言える「行き逢い」の妙、ひとつの季節が終わる時間の変わり目が繊細に描かれる。 「夏が過ぎ、秋が近づく空」を指す「行き逢いの雲」の情景を生きる者たちは、二〇一四年の作品集『水の出会う場所』、翌一五年の長編『菜飯屋春秋』(共に駒草出版刊)でも描かれてきた。それが「シェード」で「窓の向こうとこちら側。黄昏と夜が出会って、溶け合って、それぞれの領分に曳いていく」と、また別の位相に入ったようだ。 「生も死も束の間の顕現と消滅に過ぎない」とは、『水の出会う場所』の中の一節。自身も病と対峙してきた著者は、生き続ける死者と、死者の記憶を取り込んで生成し続ける生者を描き、「在ることと無いことは、実はそれほど異なったものではない。無常とは音楽の別の名前だ」と、さらなる達観の境地にたどり着いたのだろうか。 「散りながら大量生産してるみたい」と少女に嫌悪される「物置に蝶が来ている」冒頭の桜花は、最後の「旅装」において、「満開の花に似ている不在」と、咲きながらも鮮烈な「不在」を示唆する不思議な「白い塊」に結実する。花に始まり花で閉じる『夢の家』は、さながら夢幻能のようである。 もうこの作家の新たな一篇を読むことはかなわないのだと思うと、慟哭がこみあげてくる。だが、言葉は残る。とどまる。 作者も演者も去り静寂に覆われた舞台に、無数の言霊が響き続けている。(やぎ・やすこ=文芸批評)★うおずみ・ようこ(一九五一-二〇二一)=作家。著書に『奇術師の家』(朝日新人文学賞受賞)『雪の絵』『公園』『動く箱』『水の出会う場所』『菜飯屋春秋』など。二〇二一年八月に腎不全のため死去。