ロシアを襲った惨状を描く、あまりに形而上学的で特異な筆致 秋草俊一郎 / 日本大学准教授・比較文学・ロシア文学 週刊読書人2022年9月9日号 チェヴェングール 著 者:アンドレイ・プラトーノフ 出版社:作品社 ISBN13:978-4-86182-919-2 言論統制が緩んだペレストロイカ期のソ連では、「引き出しの中に書かれた」(ソ連では検閲に隠れて書くことをそう言い慣わした)膨大な作品が「発見」された。その中でも最大のもののひとつがこのプラトーノフの『チェヴェングール』だ。 本品は一九二九年には執筆が終わっていたが、その内容からマキシム・ゴーリキーも出版は不可能と見なし、刊行はかなわなかった(その後、プラトーノフは大幅な転換を求められることになる)。その後、国外での出版を経て、八八年に初めてまとまった形でソ連国内で刊行された。作家の死後、実に三十年以上が経過していた。 プラトーノフ自体は日本でも知られているが、本作はやはりペレストロイカ期に刊行が許され、すでに邦訳が刊行されている問題作『土台穴』と比べても長大かつ難解で、研究者のあいだで俎上にあがることはあっても、翻訳は日の目を見なかった。その意味では本邦のロシア文学受容には三十年以上にわたって大きな空白が開いていたことになる。 しかし本書を実際に手に取った読者なら、なぜこの本が長らく刊行が許されず、翻訳も出なかったのかすぐに了解されるだろう。扱われる題材は十月革命後にロシアを襲った惨状――貧困、飢餓、暴力――であって、それを描く著者の筆致はあまりにも形而上学的で特異なのだ。 無数のエピソードからなる本書の筋立てをまとめることは難しい。数名の主要人物の群像劇的様相を呈するが、中でも軸となるのは父親が入水自殺をして孤児になったドヴァーノフだ。引き取られて読書に耽るうちに、実存的な疑念を持つようになる。 どれだけ本を読み、どれだけ思考をめぐらせて、心の中にぽっかりと空いた箇所が残された。この空虚を、まるで不安な風のように、まだ書かれてもいない、語られてもいない世界が吹き抜けていく。十七歳のドヴァーノフは、その心を覆う鎧をまだ身につけていなかった――神への信仰も、その他の知的な安寧も持ち合わせていなかった。自身の眼前に広がる名もなき生のあり方に、よそからとった名前をつけることができなかった。とはいえ、世界が名づけられぬままでいることを欲してもいなかった――ただ、この世界自身の口から、でっち上げられた呼び名ではない、世界だけのために存在する名前を聞きたかったのだ。ボリシェヴィキに入党したドヴァーノフは、野戦ボリシェヴィキ部隊の司令官のコピョンキンとともに内戦を経験し県域をさまよう。最終的に二人が辿り着いたのが「チェヴェングール」と呼ばれる地であり、そこではブルジョワ(とされた人々)が排除され(虐殺される場面の残酷さは目を覆いたくなるほど生々しい)、共産主義の理想が実現したはずだった。 しかし、待ち受けていたのは理想郷には程遠い生活だった。それを端的に示すエピソードがある。チェヴェングールに身を寄せた乞食の女の連れた子が、今まさに息を引き取ろうとしている。母親は子にせめてもう「一分だけ」生きていてほしいと懇願する。しかし周囲の努力もむなしく子は死に、生き返ることもない。 五人のチェヴェングール人たちは子の疎外された身体に屈みこんだ――チェヴェングールでふたたび繰り返されるその生はあまりにも短いものになるから、それを見逃さないためだった。男の子は黙ってチェプールヌイの膝の上に座り、母親は子の温かい靴下を脱がせて脚の汗の匂いを嗅いだ。母親が記憶に留めて慰めを得るために子が生き、そしてふたたび死ぬことができるだけの一分間が過ぎていった。しかし男の子は二度にわたって死に至るまで苦しむことを望まず、チェプールヌイの腕の中で元のとおり死んだまま安らいでいた。幼子の命さえ救えない共産主義とは何なのだろうか? ユートピアならぬチェヴェングールは反革命軍とコサックに襲撃されて壊滅し、黙示録的な終局へと突き進んでいく。そしてドヴァーノフも自らの存在の根源とも言える深淵へと身を浸す。作品全体を通じて死は水のようにどこにでもある身近なもので、苦痛に満ちた生に比べれば安らぎですらある。そしてプラトーノフの筆は、かたちあるものとかたちないものを容易に溶けあわせてしまう。 近年、ロシア文学の邦訳では若い世代の活躍が目覚ましいが、本作の翻訳もまた若い訳者の並々ならぬ熱意によって実現した。翻訳不能とも評される原文に密着した訳文のみならず、研究者の古川哲による解説や、小冊子に付された映画監督パゾリーニによる書評、関連地図など、細心の注意が払われた本づくりにも脱帽である。(工藤順・石井優貴訳)(あきくさ・しゅんいちろう=日本大学准教授・比較文学・ロシア文学)★アンドレイ・プラトーノフ(一八九九―一九五一)=ロシアの作家。