死刑の議論を前に進めるために 櫻井悟史 / 滋賀県立大学准教授・社会学 週刊読書人2022年9月9日号 死刑について 著 者:平野啓一郎 出版社:岩波書店 ISBN13:978-4-00-061540-2 著者は、死刑について、文学から考究してきた人物である。その著者が、自身の存在を通して、改めて死刑の問題を考察しているのが本書だ。著者は、もともと死刑を「やむを得ない」刑罰として支持する立場であった。その根底にあったのは、被害者や被害者の家族、友人のことを思えば、加害者を許せないと思うのは無理もないこと、という心情である。しかし、その後、著者は明確に死刑廃止の立場に立つこととなる。一体なぜ死刑存置の立場から死刑廃止の立場に変わったのか。 この謎の解明を手がかりに、死刑についての論点が一つ一つ丁寧に、かつコンパクトにまとめられていく。死刑に興味のある読者であれば、取り上げられている論点自体は、どこかで見たことがあるかもしれない。だが、そうした論点が、著者の人生を経由して提示されることで、理屈だけではない理解が得られるようになっているのが、本書の特徴である。死刑存置から死刑廃止へと至る生きた思考の道筋を、読者は辿っていく。その途中で、自分なら別の道を選ぶと思うかもしれない。どうしてこの道がないのかと疑問に思うこともあるかもしれない。そうしたとき、自分は、なぜその道を選んだのかと自問自答することで、読者は自身の死刑に対する立場を確認することができる。著者が「あとがき」で述べるように、本書は説得の書ではない。本書は、完成度の高い、死刑の議論への入門書なのである。 本書の中核をなしているのは、被害者へのケアの欠落についての指摘である。著者は死刑廃止運動に敬意を払いつつも、それがうまくいっていない要因の一つとして、この欠落があるとする。必要なのは、加害者への「憎しみ」から被害者や被害者遺族に共感するのではなく、様々なサポートを通して、多様な被害者や被害者遺族の気持ちに向き合い、寄り添っていく「優しさ」の連帯である。そこから、死刑廃止を考えることの重要性が、本書の白眉である。この点は、著者の小説『決壊』や、『私とは何か』を併せて読むと、より深く理解できる。特に、後者で提示されている「分人主義」の概念と、その「分人主義」から、「なぜ人を殺してはならないのか」の回答を導く箇所は重要である。 なぜ死刑が存置され続けているのかという問いについて検討しているのも、本書の特筆すべき点である。この問いは、死刑研究のなかでも、十分に検討されているとはいえず、いまだ多くの謎に包まれている。この謎に、著者は、人権教育、メディア、格差社会、排外主義などの視点から迫っている。日本の死刑を歴史的、社会的文脈の中に位置づける作業は圧倒的に不足しているため、この考察は重要である。ただ、おそらくあえて現代に絞ったのだろうが、なぜ死刑が存置され続けているのかという謎を解明するには、本書で設定されているタイムスパンは短すぎると言わざるをえない。とはいえ、この問いについての検討が組み込まれたのは、死刑論にとって大きな意義があったといえる。 本書は間違いなく良書であるが、疑問がないわけではない。紙幅の都合上、全てを取り上げることはできないが、たとえば、終身刑の導入について、特に何の説明もなく取り上げられている点が挙げられる。フーコーは、フランスで死刑が廃止された際、「廃止の方法は少なくとも廃止と同程度の重要性を持つ」として、死刑の廃止を喜びつつも、同時に終身刑には強く反対し、すべての刑罰に期限があることを認めるよう主張した(「代替刑に反対する」『ミシェル・フーコー思考集成Ⅷ』所収)。こうした点をふまえるなら、どう死刑を廃止するかについては、議論の余地があるだろう。 死刑についての論点は出尽くしたと言われることがある。しかし、実際には、まだまだ論点はたくさんある。それにもかかわらず、死刑についての議論は低調で、関心も低い。本書は、そうした状況を打破し、死刑の議論を前に進めるうえで、極めて重要な一冊である。(さくらい・さとし=滋賀県立大学准教授・社会学)★ひらの・けいいちろう=作家。京都大学法学部卒。著書に『日蝕』『私とは何か』『決壊』『マチネの終わりに』など。一九七五年生。