秋林こずえ / 同志社大学大学院教授・ジェンダー研究 週刊読書人2022年9月23日号 性暴力をめぐる語りは何をもたらすのか 被害者非難と加害者の他者化 著 者:前之園和喜 出版社:勁草書房 ISBN13:978-4-326-65437-6 「女性はいくらでもウソがつけますから。」性暴力被害者支援の政策を議論する場で女性議員がこのような発言をしたと報道された。2020年10月である。謝罪、発言の撤回、議員辞職を求める署名キャンペーンがすぐに始まり、14万筆近くの署名が寄せられた。キャンペーンを立ち上げたのは、性暴力をなくすための活動を行っているフラワー・デモのメンバーたちである。フラワー・デモは2019年に相次いだ、性暴力への無罪判決の抗議行動として始まり、全国に広がった。そのデモでは多くの女性がこれまで言えなかった性暴力の被害を語ってきた。 このような活動の広がりもあるが、性暴力は身近にある暴力にもかかわらず多くの人が他人事と思っているのではないか。著者は自身の問題意識をそう説明する。そして男性加害者と女性被害者の性暴力事件に的を絞り、日本語メディアにおける性暴力をめぐる語りを新聞と週刊誌を対象として分析した。性暴力はどのように語られてきたか。そこから見えてくる「わたしたち」とジェンダー規範はどのようなものか。 メディアにおける性暴力をめぐる語りは、加害者を異常な男性として「他者化」したり、被害者に落ち度があるかのように責めたりする。まず取り上げられるのは、在沖縄米兵による女児への性暴力事件、女児が性暴力を受けて殺害された事件、特急列車での性暴力事件である。これらは加害者が見知らぬ人である性暴力である。事件に関する報道を検討すると、加害者は残虐さや異常性が強調されて「他者化」される一方、被害者が無垢な子供だったり、性行為を拒否したりすることで非難されなかった。 では被害者非難はどのように生まれるか。これは複数の加害者と成人女性・大学生が被害者である5件の事件の報道から検討されている。有名大学のサークルや運動部のメンバーたちが加害者であり、どれも広く報道された事件である。被害者の女性たちは、ついて行った、性行為を望んだ、というように、性暴力があったと認められながらも「性行為への主体性の発揮」があることで非難される。あるいは性暴力そのものが捏造と非難される。 どこかで目にした覚えがある記述が並ぶが、著者はそれらを「加害者の他者化」と「被害者非難」の強弱の二本を軸とする二元図式での位置で示す。またそれは互いに影響しあうダイナミクスでもある。そこから描き出される「誰もが認める「真の加害者・真の被害者」」は、加害者になりうる男性にとっても、被害者になりうる女性にとっても、自分とは関係のないと思わせるものである。 それには「性の二重規範」が作用するという。著者は「性行為への主体性の発揮」を使い、それは女性の場合には否定的に評価され、男性の場合は正常に発揮できない場合に否定的に評価される規範だとする。そしてこの「性行為への主体性の発揮」は、男性の間では支配・従属関係を生み、女性の間では身持ちの良い女性と悪い女性という分断を生む。また男性と女性の支配・従属関係を強化することを指摘する。性暴力をめぐるジェンダー規範がこのように明らかにされる。 最後に批判的男性学の視点から、性暴力をなくすことは加害を生まないこと、と著者は本書を結ぶ。 フラワー・デモを始めるきっかけとなった裁判4件のうち2件は父親が加害者、未成年の娘が被害者であった。性暴力被害の訴えには信憑性がないと判断されたのである。署名キャンペーンは、私たちの社会が性暴力被害者の声を信じず、聞く力を持ってこなかったと指摘した。そして、件の議員は第二次岸田内閣で総務省政務官に任命された。公の場で性暴力被害者の女性たちを貶める発言する女性議員がなぜ重用されるのか。そのような発言をする女性だからこそ、政治分野でのジェンダー平等が世界で最下位に属する日本で重用されるのだろうか。これは性暴力被害を聞く姿勢をいまだに持てない「わたしたち」が生み出しているのである。本書はその「わたしたち」の姿を見つめるための手がかりを示している。(あきばやし・こずえ=同志社大学大学院教授・ジェンダー研究)★まえのその・かずき=一橋大学大学院修士課程(社会学)修了後、民間調査会社勤務。一九九六年生。