書物という「測深船」に乗り、別の現実に生きる 塚本昌則 / 東京大学教授・フランス文学 週刊読書人2022年9月30日号 ル・クレジオ、文学と書物への愛を語る 著 者:ル・クレジオ 出版社:作品社 ISBN13:978-4-86182-895-9 本書は、今年八十二歳になるノーベル賞作家が、自身の創作活動について惜しみなく語った講演会の記録である。講演会は二〇一一年から二〇一七年まで、すべて中国でおこなったものだ。ル・クレジオは南京大学で、二〇一三年から二〇一七年まで、毎年秋の三ヶ月間、招聘教授を務めている。そのせいもあるのだろう。年代順の講演記録を読んでいくと、中国文学への言及が次第に増えていく。ユカタン半島マヤ族の森、サハラ砂漠、モーリシャス島、韓国南部の小島等、これまでル・クレジオの文学に描かれてきた空間に、中国という新しい空間が加わったのだ。 一読して驚かされるのは、創作において、空間の移動がほとんど意味をなさないと作家が断言していることである。ル・クレジオの小説と言えば、まず連想するのは旅する感覚である。サハラ砂漠からマルセイユに渡ってモデルとなり、母となるためにサハラに戻っていく『砂漠』のララのように、ル・クレジオの小説の登場人物たちは旅をしながら変貌を遂げてゆく。ところが、作家自身は旅が作品を書く助けになったことはないと述べる。「むしろその逆です。海についてもっともよく書くことができるのは、アメリカ・ニューメキシコ州で海から二千キロも離れた砂漠で暮らしているときです。」 自分の生のもっとも生命力にあふれた部分を引き出すために、窓ひとつない小部屋にこもっていたほうがいいというのだ。 確かに、本書で語られる中国は、直接見聞きした空間というより、書物の中で出会った想像上の土地である。真の移動は、世界を旅することによってではなく、古今東西の書物の中に身を投じることで成し遂げられる、とル・クレジオは確信しているようだ。本の中に入りこみ、描かれた現実の一部になりきることで、それまで知らなかった自己の可能性が見えてくる。その過程こそが自身の創作の根幹をなしていると、ル・クレジオは飽かずに説いている。 例えば、老舎の作品を、ル・クレジオは新しく出会った現実として捉えている。満州族出身の作家が描くのは、北京の胡堂で繰り広げられる生活である。家族のしきたりや迷信、階級的偏見が根強く残った界隈の、土地に根ざした人々の暮らしは、すでに跡形もなく姿を消してしまった。だが、フランスの作家がそこに読み取るのは、失われた世界へのノスタルジーではない。濃密な情緒によって拡張され、鋭くされた、現在を生きる感覚である。老舎の文章によって、「自分自身を限界づけている条件から抜け出し、描かれている現実の内部に入り込む」感覚が生じる。翻訳を通して、見知らぬ土地の物語に触れることで、現在の感覚を深めることができるというのである。 ル・クレジオにとって文学とは、何より現在の感覚を増強するものなのだ。現在といっても、実際にはさまざまな時間が凝縮された時間である。個人的な思い出、文学作品の記憶、歴史の想起、未来への投企。そうしたすべてが想像力の坩堝の中で再創造され、練り直されたものが、ル・クレジオにとって現在の実質をなしている。その坩堝には、世界の美しさ、他人への愛だけでなく、憎しみ、不正、犯罪衝動も渦巻いている。坩堝から出てくるものは、仮想の世界で起こる、別の人生の出来事にすぎない。しかし、その虚構の出来事においてこそ、これまで出会った無数の顔、言葉、匂いを再び出現させることができる、とル・クレジオは語る。それによって短すぎる人生に物質性を与え、虚無から救いだすことができるというのだ。 現代の、途方もなく自由なコミュニケーションのあり方に、ル・クレジオは警鐘を鳴らしている。そのようなコミュニケーションは、ル・クレジオに言わせれば、恐ろしく平板なものである。交わされる内容があまりに温和であるために、世界的な規模で文化が危機に陥っている、と作家は主張する。「この生ぬるさが危険なのは、生命が持つ力を窒息させ、人種差別や外国人厭悪の欲望をソフトな見かけの下に隠蔽してしまうからです。」 文学の緩慢さは、その危険への解毒剤である。温和な見かけを一皮むけば、情念の渦巻くドラマが繰り広げられている。そこに到達するために、書物という「測深船」に乗り、別の現実に生きる、別の存在に自分自身を変えていかなくてはならない。ル・クレジオが万巻の書を繙き、世界中を旅するのは、自身の奥底で絶えず動いている、あらゆる可能性に開かれた存在に形を与えるためなのだろう。書物や現実の中で出会った人と風景が、深いところでうごめく語や文章となってあふれでる、そんな未知の場所を探す旅が、ル・クレジオにとっての文学なのだ。(鈴木雅生訳)(つかもと・まさのり=東京大学教授・フランス文学)★J・M・G・ル・クレジオ=作家。南仏ニース生れ。一九六三年のデビュー作『調書』でルノドー賞を受賞し、一躍時代の寵児となる。二〇〇八年、ノーベル文学賞受賞。一九四〇年生。