ひとりの女性の抵抗の物語 大矢博子 / 書評家 週刊読書人2022年9月30日号 蝶と帝国 著 者:南木義隆 出版社:河出書房新社 ISBN13:978-4-309-03051-7 百合小説の波が来ている、というのは以前より言われていたことだが、その波を実感したのは二〇一八年に『SFマガジン』の百合特集号が発売前重版したときだ。創刊から初の快挙だったという。 百合小説とは、女性同士の関係を主軸に置いた物語のこと。吉屋信子や中山可穂、王谷晶の女性同性愛ものや、女子校を舞台にした今野緒雪のロングセラージュニア小説『マリア様がみてる』、女性の連帯で読ませる伊藤計劃のSF『ハーモニー』などなど。恋愛小説だけでなく青春ものからSFまで、ジャンルも多岐にわたる。 そんな中、南木義隆『蝶と帝国』は百合と歴史の掛け合わせだ。しかも舞台は革命前夜の帝政ロシア。これだけでも一筋縄ではいかない雰囲気に満ちている。 二十世紀初頭、ロシア帝国の都市オデッサ(現ウクライナの黒海沿岸)。幼い頃に森で狩りを生業とする老人に拾われた孤児の少女・キーラは、ユダヤ人が経営する孤児院で育った後、縁あって貴族の屋敷で働くことになった。厨房で料理人として働く傍ら、貴族の一人娘・エレナと親しくなり、使用人と雇い主の関係を超えた愛情を育んでいく。 ところがある事件を機に、ユダヤ人迫害が強まった。ロシア人たちは暴徒と化してユダヤ人居住区を襲い、ポグロムと呼ばれる大虐殺を招く惨事となった。孤児院の仲間を殺されたキーラは絶望し、オデッサを出ることを決意。心配するエレナを振り切って、残った仲間ふたりとモスクワへ向かった──というのが第一部のあらすじである。 第二部はキーラがモスクワで紆余曲折(曲折っぷりがすごい!)の末、料理人として、そして実業家として成功を収める様子が描かれる。しかし今度は彼女をロシア革命が襲う。 人種差別や革命といった社会の大きな流れの中で大切なものを次々と失っていくひとりの女性の、抵抗の物語である。迷い、病み、傷つき、足掻き、復讐に走る。自分を自分たらしめているものを求め、叶えられず、それでも走るのをやめない。第一部の穏やかで愉しい日々の描写から一転、ロシアからソヴィエトへと変わりゆく動乱の歴史を背景に浮かび上がるキーラの闘い。 キーラにとっての核はエレナへの恋慕で、それが本書の「百合」であることは間違いないが、それだけではない。キーラとともにモスクワに出てきたマリーナやニリ、モスクワで出会った浮浪児のサーシャ。さまざまな女性たちの友情や連帯がキーラを救う。百合小説と言われるとどうしてもエレナとの同性愛の顛末に気を取られるが、ぜひ他の女性たちとの関係にも注目願いたい。信頼、保護、尊敬──いくつもの尊いつながりに胸が熱くなるはずだ。 そうそう、もうひとつ忘れてはならない魅力があった。本書は帝政ロシアの料理小説でもあるのだ。貴族の食卓からレストランでの食事、ロシアとヨーロッパの食文化の融合、はては浮浪児たちへの炊き出しのミルク粥に至るまで、香りや味や舌触りを体感できるかのような料理の描写は実に見事だし、それが登場人物の置かれた環境や身分を表す小道具としても機能しているのには唸った。 骨太にして猥雑。SF風味も加わって幻想的な美しさもある。圧巻の百合×歴史×料理小説だ。(おおや・ひろこ=書評家)★なんぼく・よしたか=作家。二〇一九年、「百合文芸小説コンテスト」に投稿した「月と怪物」が『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』に収録されデビュー。一九九一年生。