狂気の炸裂する詩的な書簡が伝える、新たな《身体》論の生誕 塚原史 / 早稲田大学名誉教授・フランス現代思想・表象文化論 週刊読書人2022年9月30日号 ロデーズからの手紙 アルトー・コレクション1 著 者:アントナン・アルトー 出版社:月曜社 ISBN13:978-4-86503-140-9 本書はアントナン・アルトー(一八九六~一九四八)がフランス南西部の小都市ロデーズ(Rodez)の精神病院から一九四三~四六年に二十数名の友人、知人、親族、医師に書き送った六十通余りの手紙を、『アルトー後期集成』(河出書房新社)の監修者でもある宇野邦一氏と鈴木創士氏が訳出した著作で、一九九八年に白水社から刊行された同じ訳者たちの書簡集(『アルトー著作集Ⅴ』)の増補・改訂版である。手紙の宛先はガリマール書店(NRF)の重鎮ジャン・ポーラン宛十六通、ロデーズ精神病院長(主任医師)ガストン・フェルディエール博士宛八通が群を抜いて多く、ジッド、ピカソ、ジャン=ルイ・バローらの宛名も見つかるが、とくにフェルディエール宛六通とポーラン宛・アルトー夫人(母親)宛各一通は新たに訳出されたもので、今回の版の価値を高めている。 読者の理解のためにロデーズ到着までのアルトーの道程をごく手短に要約すれば、彼は一九二五年の『シュルレアリスム革命』第三号に「欧州諸大学学長への書簡」、「教皇への書簡」などの檄文を発表して西欧社会の諸制度に絶縁状を叩きつけ一躍運動の寵児となるが、一九二七年にはアルフレッド・ジャリ劇場創設を口実にシュルレアリスムの「教皇」(ブルトン)から「絶縁」されてしまう(この頃アベル・ガンズ『ナポレオン』のマラー役などで映画に出演)。その数年後からアルトーの地球規模の大移動が始まり、一九三六年メキシコ訪問の翌年ブリュッセルで講演後、一九三七年夏「聖パトリックの杖」を返すためにアイルランドに上陸、ダブリンで問題行動を起こし「被害妄想と幻覚の発作」(市警署長資料)により国外追放となる(少年時代から精神科の治療歴があった)。帰国後はいくつかの施設をへて一九三九年からパリ東郊ヴィル・エヴラール精神病院に収容されるが、母親の希望で四三年一月には(ドイツ占領下のフランスで)「非占領地帯にあり、デスノスの友人が主任医師をしていたロデーズの病院」(訳者後記)に移されたのだった。 以上の前史を確認したうえで、『演劇とその分身』(一九三八年)で「演劇はペストと同じで、あの〔疫病による〕殺戮と断絶のイメージそのものだ。それが解き放つ可能性や諸力が邪悪だとしたら、それはペストのせいでも演劇のせいでもなく、人生=生命のせいなのだ」(評者訳)と書いたアルトーの「人生」をあらためて再考する時、ロデーズで彼が残した言葉の貴重な集成である本書が第一の必読書であることは言うまでもないだろう。とはいえ、本書は改訂版でもあり思想的宗教的主題については以前から論じられているので、本稿では「電気ショック」療法に注目して書簡を読み直してみよう。 ロデーズ到着後間もない一九四三年三月末の手紙で、フェルディエール博士からフランス一六世紀の詩人ロンサールの『ダイモーンへの讃歌』を渡されたことに謝意を表したアルトーだが、その数か月後に様子は一変し、七月一二日付書簡では「私を電気ショックにかける必要はなかったでしょう。なぜならわが親愛なる友よ、実際私は冷静沈着で妄想を抱かない人間ですし、〔…〕どういう風の吹き回しだったのか、あなたは突然私を被害妄想患者と見なしたからです」と書いたほどだった。だが状況は変わらず、一九四五年一月六日付ジャック・ラトレモリエール博士(電気ショック療法の専門医)宛書簡には「電気ショックは私を絶望させます。それは私の記憶を奪い、思考と心を麻痺させ、自分が放心状態だと知りつつ何週間も自分の存在を探す放心状態の人間にするのです。それはもはや自分ではなく、自分が到来するのを求めている生者の傍らにいる死者のようなものです。その生者の中に自分は入っていけないのです」とあって、事態の深刻さが伝わってくる。だが、その後もこの療法は続けられ、同年九月二三日付ロジェ・ブラン(俳優・演出家、一九五三年バビロン座でベケット『ゴドーを待ちながら』初演を演出)宛の手紙で(入院から三年近くの間に)「五十回の電気ショック」をうけたことを「絶対許さないでしょう」と、アルトーは痛々しく訴えていた。 結局、アルトーがアダモフら親友たちの援助でパリに戻るのは一九四六年五月二六日のことだが、その直後のアルトー支援集会でブルトンが行った演説(「アントナン・アルトーへのオマージュ」)の一部は意外なものだった。彼は昔の友人のシュルレアリスムへの「最高度の燐光を放つ」貢献(前述の『シュルレアリスム革命』第三号)を高く評価しながらも「さまざまな臨床的処置〔電気ショックを含むが明言せず〕を、ある人物のせいにすることはさし控えたい」と述べ、「この人物は、あらゆる点を考慮しても、彼〔アルトー〕に対してこのうえなく好意的だった」(評者訳)とさえ強調して、いわば同業者であるフェルディエール医師を暗に擁護したのである(ブルトンは精神科医師補として第一次大戦に従軍)。 それから三十年ほど後の一九七七年、七十歳に達したフェルディエール博士はARTAUD «NOUVEAUX ÉCRITS DE RODEZ»(ガリマール書店刊)への序文で、彼の「治療」への非難に対して「真の人殺したちは〔…〕アルトーを「矯正しようとした」サディストで誇大妄想狂の精神科医に〔…〕私を仕立てあげてしまった」と抗弁し、「今になって告白すれば、アントナン・アルトーを早く解放しすぎたこと、そして、彼がロデーズを出た際に、退院後の保養観察の組織化に関してもっと真剣な配慮を要請しなかったことを私は一度ならず後悔したものだった」(評者訳)と述懐している。そのうえで、アルトーがロデーズ退院から二年後の一九四八年三月四日、パリ南郊イヴリーの療養所で五一歳で急逝したことを悔やむのだが、退院がなければ「電気ショック」を続けるつもりだったのだろうか。 ところで、本書に集められた手紙にはアルトー・マニアでなくとも思わず引き込まれてしまう箇所も少なくない。たとえばピカソ宛の一九四六年二月二七日付書簡は草稿だが「熟れた果肉のように垂れ下がる伏し目の瞼、まどろみの上の影、それは、目によってかろうじて示されるおぼろげな茶目っ気の中で夢見ています。彼女は眠っているのか、夢見ているのか。この絵は一つの慰めであって、魂はその外に出ることがないでしょう」とあり、訳注に従って『泣く女』(一九三七年)を想い出すと、「治療」によって日々痛めつけられていたアルトーの思いがけなく鋭い感性に驚かされる。また、一九四四年一月二七日付のジャン・ポーラン宛書簡は第二次大戦末期に書かれたもので、そこには「古くからの友情がもう二十年前からわれわれを一つに結びつけています、ジャン・ポーラン。しかし、本当の出来事が時間からはみ出て、その枠組みを壊す時が来ているのです。〔…〕そして私はあなたと同じように今年は決定的な年だと思っていますし、諸々の敵対する原理が天と地の間で互いに身を委ねているこのものすごい戦いの結末がそこには見られるでしょうが、今までそれは意識の外にあって、今現在これから意識に入ろうとしているのです」とあった。現実世界からの隔離を強いられていたアルトーが明晰で透徹した歴史認識を決して失わなかったことを雄弁に物語っており、訳文も力強い。 最後に付言したいのは「ヘロインと阿片」というアルトーを生涯悩ませた難問のことである。一九四三年四月十五日のジャン=ルイ・バロー宛書簡で、彼は「昼夜、悪魔たちによって蝕まれている身体」から悪魔を追い、神を降臨させるために「ヘロインと阿片が必要」であることをフェルディエール博士にぜひ伝えてほしいと懇願していた。当時バローは映画『天井桟敷の人々』撮影中で南仏に滞在していたはずだが、アルトーの願いを聞き届けたのだろうか。この問題への接近は別の機会を待つとしても、本書ブックカバー(装丁中島浩氏)にはアルトー自身の筆跡でL’HEROÏNEと大文字で印刷されている。ぜひ探していただきたい。(宇野邦一・鈴木創士訳)(つかはら・ふみ=早稲田大学名誉教授・フランス現代思想・表象文化論)★アントナン・アルトー(一八九六-一九四八)=フランスの詩人・俳優・演劇家。著書に『演劇とその形而上学』『神の裁きと訣別するため』 など。