知識の枠を超えて実質に出会っていく 福間健二 / 詩人・映画監督 週刊読書人2022年10月7日号 鳥の歌、テクストの森 著 者:髙山花子 出版社:春秋社 ISBN13:978-4-393-44169-5 知識、教養、いまはどうなのか。そこに体験の裏打ちが欲しい。同時に、体験の奥へと突き抜けるものがあるべきだ。そんな感じ方からすると、これはとてもいい本である。 著者髙山花子は、文化や文学の研究者となる以前から鳥の声を聴くのが好きだったという人。鳥が存在し、その声が聞こえること。それがどんなに大切なことか。まず、自分にとって大切だということがある。そこから出発している。世界にとってもそうであるはずだと言いたいのだが、急がない。耳を澄ますことからはじまるのだ。 文学にも、音楽にも、鳥の声に負けないものを求める。そう言ってしまうと簡単にしすぎたことになりそうな、独自性のある関心の持ち方と姿勢で、選ばれた対象は、大江健三郎、石牟礼道子、泉鏡花、武満徹、オリヴィエ・メシアン、モーリス・ブランショ。それぞれに一章ずつ、全部で六章の構成がすっきりしていて、読みやすい。 その執着と姿勢は明快だ。そして同時に、作者がいて表現が生みだされることへの、そしてそこにあるそれぞれの独特さへの、注意の払い方に、誠実さという以上のものがある。随所で、鳥の歌を受けとめるよろこびの感覚が、作品表現についての記述にも滲みでる。大江健三郎の章の、「信仰なき祈りを希求するテーマ」の追い方など、徐々に、著者がまさに森のなかに鳥の声を追っていく感じになる。長くはないひとつの章の、感情を抑えた書き方。それがかえって、鳥の、鳥の声の、著者の信じる大事な役割を浮かびあがらせていく。 対象から対象への移行もスムーズだ。大江から石牟礼道子へ、さらに泉鏡花へ。ある意味で近年よく取り上げられる対象だが、この順番、この組み合わせで語ることに鮮度がある。単に過去というよりも文学の「はじまり」の方へとさかのぼる動きを感じさせるし、とくに泉鏡花をめぐって「日常と非日常を行きかう鳥」を見出したのは、鏡花論としても文学論としてもまともさがある。 文学者たちから作曲家の武満徹とメシアンへ。二人の音楽そのものだけではなく、二人の書いたもの、映画や二人以外の音楽や文学者の言葉を含む援用材料があるのだが、文学と音楽を、そして言語と非言語をどう語るかという方法の問題が、そのまま作品表現を読みとる内容にもなる幸福な状態が生まれている。感心するのは、一般的に遠目から見ると何をやっているのかわかりにくい「表象文化論」が、まずジャンルを、さらにジャンル内の小ジャンルを超えて語るというミッションを果たしているのを目撃できることだ。武満を語るときには、ガムラン音楽などとともに、マイルス・デイヴィスやチャーリー・パーカーが呼び出される。鳥こそが主役の本なのになぜかパーカーがバードと呼ばれていたことはスルーされているが、知識の枠を超えて実質に出会っていく態度は楽しい。 最後の章は、ブランショ。最初からの構想だと思うが、批評の力と作家性、どちらも一級品のこの文学者の示唆するものによって結論的なものを出すというのは賢明だ。 「人間の定義そのものを根底から思考しなおしながら、人間の言語、言葉、語り、おしゃべり、声、そういったものを、極めてラディカルに深める思索のプロセスに、鳥の歌が出現するのは、偶然ではないように思う。」これには逆らう理由が見つけられそうにない。そこまでを、表現の読解としてどうだというよりも、ひとつの冒険として歩き抜いている。素朴な次元に帰ると、人の「うまく話せない」という症候が鳥の歌に通じるという回路もはっきりと見えてくる。 読者にすすめたいのは、この本を屋外で読むことだ。ベンチに座ってひとつの章を読み、それからしばらく歩いてまたベンチを見つけたら次の章を読むという、散歩しながらの読書。評者はそれをやった。確かにこの世界はどこかで鳥の声がしている。(ふくま・けんじ=詩人・映画監督)★たかやま・はなこ=東京大学東アジア藝文書院(EAA)特任助教・声や歌、音響をめぐる思想史・表象文化論。著書に『モーリス・ブランショ レシの思想』、共訳書にブランショ『文学時評1941-1944』など。一九八七年生。