宗教の持つ社会的機能を実証科学の仮説として提唱 中分遥 / 高知工科大学助教・社会心理学 週刊読書人2022年10月7日号 ビッグ・ゴッド 変容する宗教と協力・対立の心理学 著 者:アラ・ノレンザヤン 出版社:誠信書房 ISBN13:978-4-414-30636-1 本書の主張は人類の歴史において「ビッグ・ゴッド」の出現、すなわち天上から人間が道徳的に振る舞うのかを監視する巨大な神の存在を信じる宗教が出現したことによって、知人や親族から構成される小規模な集団から、数千人からなるような大規模な共同体へと拡大することが可能となったというものである。小規模な集団では、友人関係やご近所付きあいのように集団のメンバーが互いに顔見知りであり、相互監視が行き届くため、不正を働いた者を見つけ排除するといった罰の行使が可能となる。しかし、互いが互いを認識できない大規模な社会ではこうした秩序維持は困難であり、我々が住む現代社会では、警察が不正を行う者を監視し、裁判所が適正に裁くことで秩序が維持されている。本書は、警察も裁判所も未発達な社会において、人々を監視し罰を与える神の存在を信じる宗教が、秩序維持に重要な貢献を果たした仮説を提唱するものである。 宗教が道徳の要となるという主張は、本書の出版以前から存在するものであり、決して目新しいものではない。実際に、本書の各章の冒頭には著名な文学や哲学からの引用が数多く散りばめられており、このテーマが幾度も俎上に載っていたことが理解できる。本書の革新的な点は、宗教が社会の秩序を維持する役割を果たしたという仮説を、科学的に検証可能な問いとして設定し、心理学実験を中心とした実証科学の問いに落とし込もうと試みたことにある。 宗教を実証的に研究する試みはいくつか存在し、本書は特に宗教認知科学と呼ばれる一九九〇年代ごろから隆興した研究領域に位置づけられる。宗教認知科学とは、宗教を人間の認知現象、すなわち心の働きが生み出した現象の一つとして研究するものである。代表的なものでは、本書に先立って出版されたパスカル・ボイヤーによる著書「神はなぜ存在するのか?」(鈴木光太郎・中村潔訳、二〇〇八年、NTT出版)がある。ボイヤーは、我々が他者に心を知覚したり心の内を推測したりする働きが、人間以外にも働くことで「神」が生み出されるといった主張を展開した。このボイヤーの主張は、我々が心を知覚する認知機能の副産物として宗教を説明するものである。著者のノレンザヤンは、神が認知機能から生み出されたというボイヤーらの主張を前提とし、さらに生み出された神が人間の社会の秩序維持に重要な役割を果たしたことを指摘するものである。 この主張を展開するにあたって本書は人文社会科学(人類学・社会学・歴史学など)の知見を紹介しているが、重要な位置付けとなるのが著者自身の研究を含む一連の心理学実験である。特に重要なものは、著者が実施した、神の存在をプライミング(意識的に注意しないように提示)することで実際に人々が道徳的に振る舞うことを示す宗教プライミングと呼ばれている研究である。実験の結果、宗教関連の単語をプライミングされた参加者は中立的な単語をプライミングされた参加者よりも、独裁者ゲームと呼ばれる匿名の相手とお金を分配する課題においてより多くの金額を分配することを見出した。これは、実験的操作により宗教が金銭の分配といった、実際の道徳的な行動に影響を見出した研究であり、本書の中核となるものである。その他にも、宗教を信じる者が信頼されやすい傾向にあること、宗教を信じることを他者に証明するために儀式といった活動に多くの時間やコストを費やすことを示す実験が紹介されている。これら一連の実験に基づき一つのストーリーとして描いた本書は、体系的に知識を整理した学術書としての価値のみならず、読み物としても興味深い構成となっている。 本書が出版されてから、二〇二二年の現在に至るまで本書で提示されたビッグ・ゴッド仮説は、批判的な研究も含め検証されている。特に上記の宗教プライミング研究は、当初発表されたほど頑健な研究結果ではなく、現在も様々な地域の研究者が追試なされ、かくいう私も追試研究を行い懐疑的な意見を持つに至っている。しかし、ビッグ・ゴット仮説は、心理学実験のみによって検証される枠組みを超え、人類学者らが主導するフィールドに出向き多様な宗教的背景を持つ集団を対象とした実験や、大規模な歴史学・考古学のデータベースを統計的に解析することで実際の歴史を検討する研究が出現するなど学際的に発展している。研究成果のいくつかは、一般科学誌である「ネイチャー」に掲載され、実証科学の一分野としての地位を確立しつつある。こうした状況を作り出す一端となった本書が日本語に翻訳されることは価値がある。特に、宗教認知科学は欧米圏を中心とした研究が多く、本邦を含めた非欧米圏での研究の発展が期待されている。この本を手に取った読者の皆様から重要な指摘や新たな研究が生み出されることになるかもしれない。(藤井修平・松島公望・荒川歩監訳)(なかわけ・よう=高知工科大学助教・社会心理学)★アラ・ノレンザヤン=ブリティッシュコロンビア大学心理学教授・宗教の進化的起源・宗教の多様性の心理学。カナダ王立協会フェロー。