言論や知識人の世界が変質する中で 渋谷謙次郎 / 早稲田大学教授・ロシア法 週刊読書人2022年10月7日号 ロシア民族精神の深淵 聖なるロシアと革命 著 者:ピョートル・ストルーヴェ(編) 出版社:彩流社 ISBN13:978-4-7791-2841-7 本書は、一九〇五年のいわゆる第一次ロシア革命を受けて、当時の「道標」派と呼ばれる、マルクス主義から観念論や自由主義などに移行した知識人(ストルーヴェ、ベルジャーエフ、ブルガーコフら)が公刊したロシア・インテリゲンツィヤ論(『道標』、初版一九〇九年)の続編にあたり、今度は十月革命の帰結を改めて論じたものである(一九一八年出版)。執筆陣も『道標』とかなり重なり、原題を直訳すると(旧約聖書に由来する)『深き淵より』となるが、実は『道標』と続いて『深き淵より』も、一九九一年に現代企画室からすでに翻訳が出版されている。同じ年にソ連邦が解体するのであり、タイムリーであった。 日本は翻訳大国でもあり、同じ原著の訳が複数出ることは、しばしばあるが、今回の新訳では、訳者の植田樹氏による注解が本文の合間に頻繁に登場し、「訳者あとがき」では原著出版の背景や国内戦の模様が詳述されている。本書の時代背景に必ずしも通じていない読者にとっては、ありがたいと思われるが、あえて新訳を今現在公刊することの理由は必ずしも明言されていない(「訳者まえがき」では、革命の忘れられた陰の部分に光を当てることや、ロシア人の魂の深層を多面的に理解する、といった一般的な動機は説明されている)。むろん、新訳刊行の動機がどうであれ、ロシアに関心を有する者にとっては、これを期に改めて読み直してみる価値はある。 もともと『道標』が公刊された際、著者の一人であるゲルツェンゾーンは、序文で、(しばしば反体制的とか左翼的というコノテーションのある)ロシア・インテリゲンツィヤを高みから教条的に裁くためではないと述べていた。むしろ、専制を攻撃し革命をもたらした、自らもその一部であったインテリゲンツィヤの精神とエートスを自己吟味するためであった。他方、続編にあたる本書では、十月革命と内戦のもたらしている悲劇と分断、破局の予感が、あまりにもすさまじいためか、全体としてはボリシェヴィズムの野蛮性に対する告発、非難が昂じている。もともと論文集であることから、執筆者によって論調は相当異なるが、今読み返してもなお読み応えがあるのは、やはりベルジャーエフである(他にも個人的にはブルガーコフとかノヴゴロツェフなどにも興味を覚えるが)。 ベルジャーエフ自身、レーニンからも反革命視され、さっそくソ連から追放されることになるが、彼は単に十月革命やボリシェヴィズムの告発に終始するのでもなく、あるいは現代のプーチン大統領のように十月革命ではなくて十月「政変・クーデタ」(ペレヴァロート)とシニカルに言い換えて、それを過小評価するのでもなく、ロシア革命をインテリゲンツィヤの伝統の帰結として重く受け止め、ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイの作品の中に、それぞれロシア革命の「悲喜劇」や予言性、精神を読み取る作業を精緻に行っている。「ソヴィエト権力」が繰り出す施策が、ゴーゴリ的な悲喜劇を彷彿とさせるとしても、ならば現在もドンバス「人民共和国」をはじめ、同じことが繰り返されていると言うべきか。 ところが、第一次ロシア革命期や十月革命後の内戦期と異なって、現在のロシアで『道標』や本書に匹敵するような議論が知識人の間で可能かどうか、疑問とせざるを得ない。それは、単に政権の引き締めやプロパガンダのせいで、議論の土壌が奪われているからというのみならず、そもそもウクライナ侵攻に先立って、言論や知識人の世界が変質していたからでもある。議会では誰がより愛国的かを競う「ドンバス・コンセンサス」が形成されている、と皮肉られる状態だし、ゴーゴリは、もともとウクライナの地主の家系出身であることから、今やロシア文学の世界からも追放されかけている。そもそも「道標」派知識人にはウクライナ系の論者も少なからずいたはずであるし、本書も、色々な意味でクリティカルかつ豊饒であることから、現在のロシアでは、発禁に相当するのではないか。(植田樹訳)(しぶや・けんじろう=早稲田大学教授・ロシア法)★ピョートル・ストルーヴェ(一八七〇―一九四四)=社会活動家・政治家。著書に『ロシアの経済発展の諸問題への批判』など。