ポジティブな側面と非対称な関係の危険性を問う 切通理作 / 評論家・脚本家・映画監督 週刊読書人2022年10月14日号 「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か 著 者:久保(川合)南海子 出版社:集英社 ISBN13:978-4-08-721227-3 実験心理学、生涯発達心理学、認知科学を専門とする学者が「推す」という行為が人間にどのような作用をもたらすのかについて、「プロジェクション」と呼ばれる、心の動きの概念化で説明したのが本書である。 「プロジェクション」とは認知科学の鈴木宏昭によって二〇一五年に提唱されたもので「作り出した意味、表彰を世界に投射し、物理世界と心理世界に重ね合わせる」ことだと説明されている。 本書はそのあらわれ方として、さくらももこ原作のアニメ『ちびまる子ちゃん』で髙橋幹子が脚本を書いた「まる子、ヒデキの大ファンになる」という回を例に出している。主人公まる子とお姉さんが、子ども部屋の何もない壁を見つめてうっとりしている。それを見た同居中のおじいちゃんは怪訝に思うが、二人の孫は、子ども部屋の壁に西城秀樹の身長と同じ高さのところへ印をつけて、あたかも西城秀樹がそこにいるように想像して見上げていたのだった。孫たちからそのように説明されてもピンとこないおじいちゃんだったが、「おじいちゃんは百恵ちゃんでやってみなよ」と促され、山口百恵の身長に合わせた高さに印をつけた壁を見上げる。するとおじいちゃんにも微笑む山口百恵が見えて、思わずうっとりすることが出来た。 ……この例は「推し」に通じる心理として、放映直後のSNSなどでかなり話題になったという。実際には壁には何の変化もないのにもかかわらず、この三人にとっては、うっとりできる対象になる。それはまさに「プロジェクション」のあらわれなのだと、本書ではたびたび持ち出されることになる。 応援のコール・アンド・レスポンス、二次創作、物真似、「2.5次元」作品への耽溺、その人ゆかりのものを身に付ける……など、「推し」的なものが反映されている行動に「プロジェクション」という心の働きを見出していくのだ。 身近に接することはない芸能人や、漫画やアニメに登場する架空のキャラクターを「推す」という行為。それは遠くに居る、あるいは別次元に居る彼らに感情移入するというだけでなく「実在」を感じるということである。それは「推す」側にとって、ほとんど「生きる意味」を見出すことに近いとまで著者は言う。 「『推し』に救われたという経験は、『推し』が自分に直接なにかしてくれたということではありません」という文に続き「『推し』によって自分がなにかに気づいたり、自分がなにかできるようになったり、自分をとりまく世界のとらえ方が変わった」ということなのだと説くのだ。人は誰かを助けたり応援する行動をとるだけで、自分を高揚させることが出来る。それは、既に推される対象からの「代理報酬」になり得ているというのだ。 「いま、そこにない」ものに思いを馳せること、そしてそれを他者ともわかちあえることは、人間が進化の過程で得てきた「知性」なのだとする。 そう。それは一人で完結するものではない。「応援」することで他の多くの人たちと相互作用が生まれ、同じプロジェクションを共有するコミュニティの快楽が生成される。そこでは、自分の限定された身体の枠から飛び出した拡張体験があり、認識世界を豊かにする救済をもたらす。 本書はこのように、「推し」のもたらす心理作用をポジティブに、その感性が開ければ人間を限りなく幸福にすることであるかのごとく記述されている。著者自身の家族など、個人的な人との交流をたびたび例に出したり、前述した鈴木宏昭のような、該当研究の先達の名前が記されるたびに「先生」と敬称を付けることを忘れない姿勢にも、それはあらわれていよう。本書自体が、「プロジェクション」の意義をわかちあえる者同士の共同体を形成しているかのようだ。 だが「認知科学」が、人の知性を人工的に作り出す「人工知能」研究と表裏であるとの指摘がある割には、それが悪用された場合についての記載がほとんど見られないのは気になった。 本書に寄せられたAmazonのレビューにも、ネガティブな事象の中にプロジェクションによると思われるものを見つけることや、人の意識を操作するマインドコントロールに使われる可能性が高いという危機意識が必要なのではないかと指摘がなされている。 「推し」は、それをする当人と、相互作用の関係になる人々にとっての主観的幸福はもたらすかもしれないが、それは「推される」相手にとって都合のよい関係に操作されてしまう危険と、表裏一体なはずだ。たとえば、「推す」側に過度な負担を強いる課金要求などにつながりやすい。 その非対称な関係に「我に返った」時、「推し」であったはずのタレントに対し凶器を用いて暴行を加えてしまう、裏返しのような凄惨な事件も起きている。 安倍晋三元総理を銃撃した暗殺犯もまた、元々は標的となった人物の「ファン」であった。その母親は新興宗教にマインドコントロールされて、彼の家庭を崩壊させていた。 元総理の「国葬」は、あたかもヒビが入った「プロジェクション」を修復させようとするかのように、故人を、政治家としての評価以前に「キャラクター」としての親しみやすさのイメージで糊塗しようとしていたかのように、筆者には感じられた。 「プロジェクション」による操作は、人工知能がより発達した近未来を待つまでもなく、既に行われているのではないか。本書でそこに割いた章がなかったのは残念に思う。同じテーマの裏面に焦点を当てた続巻を期待したい。(きりどおし・りさく=評論家・脚本家・映画監督)★くぼ(かわい)・なみこ=愛知淑徳大学心理学部教授・実験心理学・生涯発達心理学・認知科学。著書に『女性研究者とワークライフバランス』など。