取り返しのつかないことが起こったあとでも人生は続く 太田明日香 / ライター・作家 週刊読書人2022年10月14日号 ひこうき雲 著 者:キム・エラン 出版社:亜紀書房 ISBN13:978-4-7505-1747-6 原著は二〇一二年に韓国で刊行された、一七万部を誇るベストセラー。二〇二二年八月、亜紀書房より「韓国文学のシリーズ」〈キム・エランの本〉の第一作目として翻訳された。著者のキム・エランは一九八〇年生まれ。二〇〇二年「ノックしない家」(のちに『走れ、オヤジ殿』(晶文社)に収録)でデビューした現代韓国文学の旗手。本作を含めて四作品が邦訳されている。 訳者の古川綾子のあとがきによると、タイトルの『ひこうき雲』の原題は、韓国語の「ピヘンウン」という言葉で、同音異義語の「飛行雲」と、「非幸運」が重ね合わされている。そこに込められたのは、上昇と下降の二つのイメージだ。帯では「この空の向こうに、幸せはきっとある」と、上昇のイメージが押し出されているが、収録された八作品を通して読むと将来や人生への不安を強く感じる。その不安とはいったい何なのか。 一つは学歴社会や格差社会が進み、若者にとって将来の見通しが立たない韓国社会のきつさだ。収録作品は二〇〇八年から二〇一二年に発表されたもので、あとがきによると韓国社会で起こった実際の事件がモチーフとなっているそうだ。 「虫」では再開発による家賃高騰や低賃金で安心して子育てできる環境をもてない若夫婦の姿が、「キューティクル」では、余裕のある者にとっては当然だが、生活にカツカツの者にとっては贅沢品であるネイルケアから韓国社会のルッキズムや格差が見えてくる。 もう一つは青春時代の終わりだ。作品はすべて著者が二〇代の終わりから三〇代にさしかかる頃に書かれたそうだ。「そっちの夏はどう?」では大学時代の先輩の仕事に協力したことで思慕が決定的に打ち砕かれ、「ホテル ネアックター」では旅行中に学生時代の友人との価値観の違いが決定的に明らかになり、「三十歳」ではバイト先の塾の元教え子をマルチに勧誘したことで決定的に裏切る。大人になる過程でついた傷は、傷ついた側だけでなく、傷つけた側にとってもとても苦いものであり、いつまでも残り続ける。 では、決定的なことが起こったあと人はどう生きればいいのだろうか。「かの地に夜、ここに歌」はタクシー運転手の中年男性が、「一日の軸」は五十代の女性が主人公だ。二人とも家族と疎遠となっているが、いずれも日々の生活や労働のなかで、孤独感や古傷の痛みをいなす方法を身につけ、悲嘆にくれることなくなんとかやっている。二人の姿からは、傷ついた直後は胸が締め付けられるような痛みに苦しんだとしても、それが永遠に続くわけではないことがわかる。 また、収録作の中で唯一のSF的作品「水中のゴリアテ」は異例の長雨のあと水に沈んだ世界でひとりぼっちで漂流する少年が主人公だ。それでも「誰か」を待つ少年の姿からは、取り返しのつかないことが起こったあとでも人生は続くから、決してなげやりになってはいけないという、痛切な著者の声が聞こえてくるかのようだ。(古川綾子訳)(おおた・あすか=ライター・作家)★キム・エラン=韓国の作家。仁川生れ。著書に『どきどき僕の人生』『走れ、オヤジ殿』『外は夏』など。大山文学賞、李箱文学賞を受賞。