思考を喚起する〝アイディア集〟として、自由に読みたい 宮﨑裕助 / 専修大学文学部教授・哲学 週刊読書人2022年10月14日号 散文のイデア 著 者:ジョルジョ・アガンベン 出版社:月曜社 ISBN13:978-4-86503-132-4 哲学が「すべて」の真理を言い表そうとする営みによって定義されるとしよう。とすれば、そのような言表そのものは当の「すべて」に含まれるのかどうかという問いが端的に生じる。含まれるとすれば、自身の言表そのものをふたたび言い表さなければならなくなり、際限のない自己言及に陥る。含まれないとすれば、「すべて」を言い表すことは当の言表を「すべて」の外に置くことであるため、「すべて」の真理ではないことになり、前提に反することになる。とすれば、哲学はいかに真理を言い表せばよいのだろうか。 アガンベンは、本書の最初の断章で、哲学的思考が追究してきた至高の原理が、実のところ「不可解なものとしてさえテーマ化されえぬもの、表現不可能なものとしてさえ表現されえぬもの」であることを記している。というのも「言い表しえないもの」と示されたとたん、それはそのようなものとして否定的な認識が可能だという幻想を抱くことができるからである。「絶対的に言い表せぬものについては、私たちはそれが言い表せぬものだと断言することさえできない」。 今日なおも活躍し続けている存命の世界的な思想家として、ジョルジョ・アガンベンの名を挙げない者はいないだろう。日本ではすでに著名な存在であり、幸いにも主著のほとんどが翻訳され、優秀な翻訳者たちによって近著も陸続と紹介され続けている。 今回翻訳された本書は、しかし、アガンベンの著作のなかでも比較的埋もれていたテクストである。初版の刊行は一九八五年であり、アガンベンが世界的に注目を集める思想家になったのは九〇年代後半以降であることを考えると、本書は相対的に初期の著作に属する。にもかかわらず、長らく未紹介だったのは、訳者があとがきで記すように「翻訳者泣かせ」であったからだ。 その理由として訳者は、本書の書かれ方が「ヨーロッパ諸言語に依存した表現や内容」「典拠を明示しない引用や参照」「ほのめかし」に満ちており、「論証というよりは散文詩にも近い独特のスタイル」である点を強調している。実際、今回筆者は書評のために通読したが、アガンベンの他の著作に比して、とりわけ難解に感じたことを白状しなければならない。 本書は、大きく三部に分かれており、各部はそれぞれ「~のイデア」と題された十一の断章で構成されている。扱われる主題は、例えば「真理」「愛」「研究」「権力」「共産主義」「政治」「正義」「平和」「恥」「音楽」「幸福」「最後の審判」「沈黙」「光」「栄光」「死」等々であり、一見して各断章は互いに論理的な関係で結ばれているわけではない。それこそアイディア・スケッチの様相を呈している。あたかも通読により本書の一貫した「イデア=アイディア」を取り出そうとする読解態度そのものが間違っているかのようである。 本書の構成が、その後のアガンベンの著作群からみると『ホモ・サケル』の連作等で全面展開されることになるいくつもの着想を、断章として切り出したものであるという点は確かだろう。本書からアガンベンの思想なるものの実質を理解しようとすると、読者は途方に暮れてしまうにちがいない。本書を手にとった読者はまずは通読しようとせずに、どこから読んでもよいような仕方で、各自の思考を喚起するアイディア集として自由に読むことを勧めたい。訳者が巻末で各断章に付した補足的な註記は、読者の理解を助けてくれることだろう。 にもかかわらず、本書はそれだけのテクストとして片づけることはできない。散文詩集のような本書の構成には明確な理由がある。本書のタイトル「散文のイデア」は、ベンヤミンの有名な「歴史の概念について」に関連する遺稿から採られたものだ。そこに込められている含意は、まさに哲学と詩のあいだにある「散文」の特異な役割である。 プラトンの詩人追放論がそうであったように、哲学ははじめから詩と緊張関係にあった。詩作が幻影を見させることで人々を真理から遠ざけてしまうかぎりで、哲学は、詩が特徴とする韻律に依存することを断ち切らなければならない。他方、哲学がもとより直面していたのは、冒頭に述べたように「すべて」をなす真理に到達しようとする企てを研ぎ澄ませようとすればするほど「言い表しえぬもの」の困難に見舞われるという事態である。 若き日に悲劇作家になることを夢見ていたプラトンは、ソクラテスとの出会いに衝撃を受け、文学を放棄して哲学を志すようになった。彼が師匠の死後その哲学を対話形式で書き残したことは周知の通りである。対話形式はしかし、文学=詩であることの誘惑を断ち切っているだろうか。 哲学がそのとき頼ろうとするのは、音韻(表現)と真理(意味)を一致させる言語形式である。現代で言うなら、ひとつには哲学の専門用語であり、もうひとつには学術論文が取るような論述形式である。実のところ(パラグラフ・ライティングとして教えられているような)論文を論文たらしめる規範的形式は、散文であるどころか、それ自体が形骸化した韻文の一形態であり、褪化した美的形式にすぎない。 本書でアガンベンが「散文のイデア」と呼ぶものは、そうした美学化に抵抗するもの、すなわち、哲学が思考する営みであり続けるかぎりで否応なく引き受けざるをえない、表現と意味との不一致、詩の物質性(マテリア)を指している。他方、これはとりもなおさず、詩作が本来、韻律の美学的な組み合わせであるだけでなく、それ自体が哲学=思考することによってのみなされうるということを意味している。 本書の散文詩スタイルはけっして気ままなアイディア集であり続けることを許さない。本書のエクリチュール(書記行為)は「散文のイデア」を追究せんとするなかで、その後の主著へと繰り広げられることになる八〇年代のアガンベンの思考を厳密に実行したがゆえの精髄でもある。「絶対的に言い表しえぬもの」に極限まで漸近せんとして断片にいたること。読者はアガンベンのかつての歩みの途上で、哲学と詩のせめぎ合いのうちに、端的に思考と呼ぶほかない何かが閃くいくつもの瞬間に居合わせることができるのである。(高桑和巳訳)(みやざき・ゆうすけ=専修大学文学部教授・哲学)★ジョルジョ・アガンベン=イタリアの哲学者・美学者。著作に『ホモ・サケル』『アウシュヴィッツの残りのもの』『例外状態』など多数。一九四二年生。