落ちるに任せる。だがきっと止まる。自己認識と嗅覚の確かさ 陣野俊史 / 書評家・フランス文学者 週刊読書人2022年10月21日号 モヤモヤの日々 著 者:宮崎智之 出版社:晶文社 ISBN13:978-4-7949-7325-2 人はどうして他人の書いた日記を読むのだろう、と身も蓋もない問いに、この本を読んでいる最中、幾度も投げ返される。どうしてなんだろう、まったく。でも、どういうわけか、途中でやめることができなくて、ついつい読んでしまう。最後までみっちりと、という感じではないのだが、拾い読みのようにして飛ばし飛ばし読んでいこうとして、結局、行ったり来たりしながら全部読んでいるのだが、特別、面白いことが書いてあるわけではない。語り方がめちゃくちゃ巧い、ということでもない(宮崎さんの文章については、巧拙で測れないところがある)。二〇二〇年一二月二二日から、二〇二一年一二月三〇日までの日記。日付に意味があるとすれば、この期間は新型コロナウィルスの脅威にさらされていた時期であり、ほぼ自粛しつつ家にいた期間ということぐらいだろう。いま、「ぐらい」と書いたが、この日記の特質は、コロナとはあまり関係ないと思う。出版社のWEBに連載されていたエッセイで、毎日更新ということを唯一の縛りとして、そして約束どおり毎日書き足されていって、この本が出来あがった。 いきなり大上段に構えるみたいだが、たとえば、日記文学の最高傑作って何だろう。カフカの『日記』を読むのは、そこに描かれた不定形の何かが、彼の文学との連続性において確認されるからだろうし、『断腸亭日乗』を読むのは、永井荷風が死の直前まで書いたという事実もそうだが、戦争を挟んで激動の時期を文士がどう生きたかが、読者の興味を惹くからである。同じ理由で『アンネの日記』も人を惹きつける事実を持っている。少しまえ、仕事で必要となり、詩人の伊東静雄の残した、断続的な日記を隅から隅まで繰り返し読んだことがあるが、ほぼ結核の闘病記とも言えるような内容で、書かれていない日付のほうが気になった。病気が重篤になって筆が握れなかったのだろうか、とかいろんなことが気になるのだ。 つまり、日記には、劇的な要素が必要なのである。少なくとも、他人が他人の日記を読むには、書いている人物への持続的な関心と、日常のなかで引き起こされる非日常の事件が、必須と言えるだろう。 だが、本書には劇的な要素がない。日記を書いている宮崎智之さんと、奥さんと、犬と、赤ちゃんがいる。誰かがひどいめにあったりもしないし、(犬のニコルは動画配信で人気者になったとはいえ)読者の圧倒的支持を得ている人物がいるわけでもない。部屋の片づけがうまくいかず、ぐずぐず、モヤモヤしているうちに、ついに一念発起するも、ほんとうに片づいたのかどうか、わからないうちに終わる。でもそれもこれも面白い。ただ、この面白さをうまく伝える言葉が、評者にない。 と、思って読んでいたら、こんな箇所にぶつかる。「僕は観光地で売っているマグネットを買うのが大好きである。キューバのハバナで買った、自重に耐えられずにずり落ちるチェ・ゲバラは僕の親友である。僕がマグネットなら同じく自重に耐えられないタイプだと思うからだ。」 この自己認識が、本書の文章の肝なんだな、と思った。自分で自分の重みに耐えきれず、ずるずると落ちてくるマグネットはしかし、最後の最後には止まる。これ以上落ちないところを知っている。だから日常で起こる小さなさざ波に、いっけんすると翻弄されているように見えながらも、その流れのなか、どこで止まるか、考えている。特に頑張るわけではない。落ちるに任せる。だがきっと止まる。止まったところで、ポンと言葉を発する。それが宮崎さんの日記なのだ。コロナ禍で巣ごもりして仕事しすぎのときの記述。「そう。いつもと同じである。いつもと違うのに、いつもと同じ。一方、いつもと同じなのに、いつもと違うとも言える。これはどうも臭う。警戒したほうがよさそうだぞ!と、その場では妻に返すことはせずに、うなだれていただけだったので、今、そう書いておこうと思った。」 この嗅覚の確かさが日記を支えている。(じんの・としふみ=書評家・フランス文学者)★みやざき・ともゆき=フリーライター。地域紙記者、編集プロダクションを経る。著書に『モヤモヤするあの人』『吉田健一ふたたび』(共著)『平熱のまま、この世界に熱狂したい』『中原中也名詩選』(アンソロジー)など。一九八二年生。