食からみた国民国家の形成 森枝卓士 / 写真家・ノンフィクション作家 週刊読書人2022年10月21日号 イタリア料理の誕生 著 者:キャロル・ヘルストスキー 出版社:人文書院 ISBN13:978-4-409-51094-0 日本料理はいつから存在するか、ご存じだろうか。 答えは明治時代から。西洋料理や中華料理が入ってきて、それから、日本ということを意識するようになったということだ。それ以前には京料理であったり、江戸料理はあっても、全体としての日本料理という意識はなかったのだ。 この本を読んでいて、まず、思い出したのはそのことだった。中世から近世にいたるまで、ミラノ公国だの、ナポリ王国、フィレンツエ共和国等々という具合に分断されていた。統一イタリアとなったのは十九世紀のことだった。つまり、「イタリア料理」と呼べるものも、それ以降の話だということである。その成立の過程を追ったのが本書ということだ。 とはいえ、美味しいイタリア料理の歴史という期待で、本書を手にしたら、面食らうに違いない。なに、庶民にとってはパスタでさえ、日常ではなかった? パスタの茹で汁をスープ代わりに(大差ない貧しい隣人から)恵んでもらう暮らし? 料理の歴史の話らしいから、四條流の伝統とか八百善の高額なお茶漬けが……というようなあれこれが描かれているのかと思いきや、食うや食わずの歴史に唖然とするという次第。 「十九世紀。そして二〇世紀の大半を通してイタリアの庶民は、パンもしくはポレンタ(トウモロコシの粉から作るもの)を、たいてい玉ねぎ、ピーマン、ニンニク、イワシ、アンチョビーまたはオリーブ油とともに食べていた。パスタ、豆類、ワイン、乳製品、野菜、果物はそれらほど食べておらず、肉やアルコールは特別な機会に限られた」(本書16頁)というのだから。 まあ、日本料理と呼ばれるものだって、どれだけ庶民が日常で食べていたかという話ではある。日本の食の象徴、白米のご飯だって、日々、庶民まで皆、ふつうに食べられるようになったのは、戦後の高度経済成長期であることを思い起こせば分かる話しではある。同じようなことがイタリアでも、ということだ。 それにしても、「本書で示したいのは消費習慣の歴史であって、イタリア料理がもつ地域的多様性の由来ではない」などと断言されると、ますます、思っていたものとは違うのかと心配になる。 しかし、それは杞憂だった。いわゆるグルメ的歴史に興味のある向きにも、社会史的興味でも、なるほどと思わされる、その背景が一読、見えてくるから。 イタリアという統合の中での国民料理形成。第一次世界大戦下での食の国家統制。そして、ムッソリーニのファシズムの中での食。そこにはエチオピア侵攻、第二次世界大戦がある。そして、「経済の奇跡」から豊かな大衆消費社会へ。 目次に即して、そう書いていくだけで、どれだけ、日本の近代との相似形が見て取れることか。 そうそう。アメリカへの移民(とそこで形成された食)の存在もイタリア料理のイメージに強い影響をと、アメリカ人の著者は述べているが、思えば寿司などの日本食の国際化も、アメリカでのある種のオーソライズが一因となっていることも関連があるか? そのアメリカが牽引する食のグローバル化、ファストフードに対する、スローフードの運動がイタリアから出てくることの意味もまた興味深い。 読みながら、藤原辰史の『ナチスのキッチン』を始めとするドイツの近代の食についての一連の仕事も思い出し、合わせて考えさせられること多々である。 細かく見ると、異論反論、いろいろと浮かぶのだが、国民国家の誕生と食の変容、国民料理の誕生等々という興味深いテーマを考えるきっかけとなることは間違いない。 加えて、解説が秀逸。背景的な状況等々もこれで理解いただけるはず。(小田原琳・秦泉寺友紀・山手昌樹訳)(もりえだ・たかし=写真家・ノンフィクション作家) ★キャロル・ヘルストスキー=デンバー大学人文社会学部歴史学科准教授・近代ヨーロッパ史・イタリア現代史・食の歴史・ファシズム史。ラトガーズ大学で近代ヨーロッパ史の博士号を取得。著書に『ピザの歴史』など。