アイデンティティを奪われてきた者たちへ 若林踏 / 書評家・ライター 週刊読書人2022年10月28日号 ループ・オブ・ザ・コード 著 者:荻堂顕 出版社:新潮社 ISBN13:978-4-10-353822-6 不安と絶望の世界へ生まれた者たちにとって、羅針盤のような小説。荻堂顕『ループ・オブ・ザ・コード』を読み終えて、ふとそんな思いに駆られた。新型コロナウイルスのパンデミック、ロシアによるウクライナ侵攻と、地球規模で未来の見えない状況になっている今だからこそ求められる物語だ。 舞台となるのは、疫病禍を経た近未来である。世界生存機関(WEO)の現地調査員であるアルフォンソ・ナバーロは、かつて独裁国家であった〈イグノラビムス〉を訪れる。この国はクーデターにより政権を奪取した国軍幹部が、特定の少数民族のみを殺害する生物兵器を使ってジェノサイドを行った過去を持つ。そのため国連から国の歴史が〈抹消〉され、〈イグノラビムス〉という名が与えられた。今では多数の欧米企業が開発に参入し、国内にはマンハッタンそのものを移植したような光景が広がっているのだ。 そんな〈イグノラビムス〉で、奇妙な病が流行していた。二〇〇名以上の児童が原因不明の発作に見舞われ、体を丸めた姿勢のまま動かなくなる症状に陥ったのだ。この奇病の原因を調査するためにアルフォンソは派遣されたのだが、実はもう一つ、ある極秘任務が彼に課せられる。 〈抹消〉前の国家で製造された生物兵器が、開発者の分子生物学者とともに、正体不明のテロリストたちによって奪われたのだ。もしも再び生物兵器が使用されれば、過去の惨劇が繰り返されることになる。そのような事態を何としても防ぐために、アルフォンソは疫病の謎に挑むと同時にテロリストの行方を追う。 荻堂顕は『擬傷の鳥はつかまらない』(新潮社)という作品で、第七回新潮ミステリー大賞を受賞しデビューした作家だ。『魏傷の鳥はつかまらない』は、過去を消して逃げたがっている人間に偽物の身分を用意する女性が主人公の、SF的な設定が盛り込まれた一人称視点の犯罪小説だった。いわゆるハードボイルドと呼ばれるジャンルに属する作品だったわけだが、第二作にあたる『ループ・オブ・ザ・コード』でも、アルフォンソの視点から奇病の原因を突き止めるため、関係者のインタビューを繰り返しながら謎解きに挑んでいく様子が描かれる。 こうした一人称視点の謎解き小説の形式が進む一方で、本作では危険な兵器を盗んだテロリストを捕えるための追跡劇が展開する。前半は謎解きにおける情報収集の場面がやや長く、物語全体が間延びした印象が拭えない。だが、後半にしたがって疫病の謎の解明も、テロリストとの攻防戦もギアがかかり、それまでの停滞感が噓のように物語が加速していく瞬間がやってくるのだ。特に終盤では活劇の要素もたっぷりと描かれており、重苦しい題材を扱いながら、娯楽小説としての躍動感もしっかりと楽しめる点は評価したい。 『偽傷の鳥はつかまらない』では現世に絶望し、過去を捨てて生きようと望む人々の姿が描かれていた。本書では、そもそも捨てるべき過去さえも抹消されてしまった者たちが大勢登場する。彼らには、生まれた時から故郷と呼べるものがない。では、そうした人間たちは何を縁にして生きればよいというのか。本書は、そうした生を受けた瞬間にアイデンティティを奪われることへの問いが、繰り返し提示されている。 この難題を受け止め、様々な登場人物たちとディスカッションを行いながら、読者に考えさせる役割を担うのが、語り手のアルフォンソ・ナバーロである。彼自身も家族や故郷と呼べるものが無く、常に「生まれてこなければ良かった」という思いを抱きながら生き続けている人間だ。さらに彼は、自分の子孫を残すことに対する忌避さえも抱いている。こうした不安定なアイデンティティを持つ主人公が、疫病とテロという二つの災禍の中で何を見て、何を感じ取るのか。アルフォンソが最後に辿り着く答えに、祈りにも似た思いを感じた。(わかばやし・ふみ=書評家・ライター)★おぎどう・あきら=作家。大学卒業後、様々な職業を経験する傍ら執筆活動を続ける。二〇二〇年、『擬傷の鳥はつかまらない』で第七回新潮ミステリー大賞受賞。