言葉との遊び、パタフィジックの妙技、そしてしぶとさ 大野露井 / 翻訳家・法政大学准教授・日本文学 週刊読書人2022年10月28日号 北京の秋 著 者:ボリス・ヴィアン 出版社:河出書房新社 ISBN13:978-4-309-20862-6 このところ近所にビルを建てていて、今朝も甲高い音で起こされた。不愉快なことは確かだが、何の機械なのか、まるで野放図なトランペットの、延々と続くソロのようだなと思ったら、おかしくなってくるから不思議だ。 ボリス・ヴィアンの『北京の秋』にも、そのようなところが大いにある。エグゾポタミーなる奇妙な名の、時空からはみ出たような砂漠に集められた主人公たちは、これといった理由もなく大規模な鉄道工事に勤しむことになるのだが、わざわざホテルを真っ二つにして線路を通すなど無茶な計画が満載だから、なかなかどうして進まない。いったい自分は何を読んでいるのだろう、とだんだん不安になり、ついにはイライラさえしてきたところでふと紙面に目を落とすと、喧嘩や恋愛に明け暮れる彼らの漫才にうっかり笑わされたりするのである。 実際、隙あらば展開される言葉遊び、あるいは言葉との遊びこそ、本作の、ひいてはヴィアンの真髄なのだ。生涯の友であったレーモン・クノーにも通ずるパタフィジックの妙技や、影はもちろん毛布までが意思を持って動き出す風景は『不思議の国のアリス』を想起させること言うまでもない。しかも突然、ハード・ボイルドな三文小説の乾いた文体に切り替わったかと思うと、こんどはシュルレアリスム風の幻影があたかもストップ・モーションのように襲いかかり、シュヴァンクマイエルに映像化を頼みたくなる始末なのである。 かほどに賑やかでハチャメチャな世界に生きるのはさぞや楽しかろうと思いきや、住人たちの表情はときおり満員電車の勤め人の暗鬱さを呈する。そして際限のない仕事の退屈さを、あたかも啄木の「はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢつと手を見る」のような調子で嘆くのだ。何のことはない、『北京の秋』は、想像力を生殺しにされた生活者たちの白鳥の歌なのである。 作者ヴィアンそのひとも、むろん一人の生活者であった。裕福だが短命な者が多い一族。心臓疾患で長生きはできそうもない。だからこそ旺盛に取り組んだ。文学にも数学にも才能を示し、立派なザズー(ジャズ狂い)になった。演奏に明け暮れる日々。早すぎる結婚。壮大な偽書『墓に唾をかけろ』で世間の話題をさらったのも束の間、裁判沙汰となり身ぐるみを剝がれる。『うたかたの日々』では確実と思われた文学賞を逃して孤立するし、『北京の秋』も、最後の長編『心臓抜き』も理解されなかった。離婚(妻はサルトルの愛人となる)、再婚。作詞作曲にも手を染め、歌手もやった。会社はやめたり、また勤めたり。そして『墓に唾をかけろ』の映画化が決まる。ようやく、たんまり稼げるかもしれない。だが試写会の席上、ヴィアンは心臓発作を起こす。三十九歳没。 ヴィアンの生涯には、無頼の作家モーリス・サックスとも重なる部分が多い(自分で訳したので、身近に感じているせいもあろうが)。溢れんばかりの諧謔精神に、自己愛と背中合わせの自己嫌悪。得意な英語を、創作活動にも活かしたこと。さらに二人とも、大手版元のガリマールから作品を出すことを切に願った。この夢は叶うのだが、一筋縄ではゆかず、二人はいつも金策に奔走しなければならなかったのである。『ボリス・ヴィアン伝』(国書刊行会、二〇〇九)を書いたフィリップ・ボッジオは、そのような苦況のなかでヴィアンがときに「やっつけ仕事」をせざるを得なかったと強調する。あるいはその「不完全燃焼」もまた、ヴィアン文学の力強さの源なのかもしれない。 日本での受容の点ではヴィアンは恵まれており、一九七〇年代末には全集が出ているが、二〇一〇年代に入ってからも新訳が相次ぎ、再評価の機運が高い。それはヴィアンのしぶとさに学んで世界に唾を吐いてやりたいという、私たち読者の願望の表れだろうか。『北京の秋』も野崎歓氏の当意即妙の新訳で、更なる読者を誘惑するだろう。 なお装画は、拙訳『僕は美しいひとを食べた』にも素晴らしい作品をくださったヒグチユウコ氏。ヴィアンの鬼面人を威すようなところを和らげる、メランコリーで可愛らしい意匠が目を惹く。(野崎歓訳)(おおの・ろせい=翻訳家・法政大学准教授・日本文学)★ボリス・ヴィアン(一九二〇―一九五九)=フランス生まれの作家・詩人・ジャズトランペット奏者。代表作に『うたかたの日々』『心臓抜き』など。