光と闇のコントラスト、製作面のプロたちのこだわり 田中秀臣 / 経済学者・上武大学教授 週刊読書人2022年10月28日号 必殺シリーズ秘史 50年目の告白録 著 者:高鳥都 出版社:立東舎 ISBN13:978-4-8456-3804-8 ワイドショーを主に情報源としている人たちを、私は「ワイドショー民」と名付けている。特徴を例示すると、マスコミの疑惑商法に煽られやすい人たちだ。以前は森友学園・加計学園などが関心の中心で、いまは旧統一教会問題が重要な疑惑の対象だろう。その都度のワイドショーの取り上げ方に刺激され、テレビを見過ぎの「犠牲者」でもある。高齢層ほどテレビの視聴時間が長いため、ワイドショー民化しやすい。 ワイドショーは娯楽番組の要素が強いので、物事を善悪二元論で語りやすい。だいたいワルは政府や社会的地位が高そうな人たちである。薄っぺらい反権力志向をわりと鮮明に持っていたりする。 さてそんなテレビ見過ぎのワイドショー民時代が、何を隠そう僕にももちろんあった。一九六〇年代から七〇年代真ん中ぐらいまでだ。世界は実に単純にできていて、正義と悪の対決は心地いい快楽だった。多くの時代劇やヒーローものはそんなタイプの物語に満ちていた。現実だって政治家は巨悪で、学校は権威主義の化け物だ。いわばワイドショー少年として過ごしていたのだ。 だが、この単純な善悪図式でははかれない異様なドラマがやがて始まった。おカネで殺しをひきうける小悪人たちの物語。「必殺シリーズ」である。最初の『必殺仕掛人』から『新必殺仕置人』まで、私はリアルタイムで見続けた。本書のインタビューで、念仏の鉄を演じた山﨑努が「勧善懲悪の時代劇をどう外すのか」という狙いを述べているが、私の場合はまさに彼の術中にはまった。暗殺者側が、どう考えても立派な人格者ではない。のちに「必殺シリーズ」の顔になったが、中村主水などは袖の下を、時には暗殺する側(悪徳商人や悪代官など)からももらってしまう情けない小役人である。特に善と悪の境界をあいまいにするかのような、光と闇のコントラストでの暗殺行為。そして手持ちカメラで映し出される大胆なアクション、レントゲンで骨や臓器が破壊されるところが映し出される奇想めいた暗殺技、これらは「必殺シリーズ」の誰でもが知る世界観ともなっている。 この世界観は、京都映画という独特の職業集団がなくては生まれなかった。撮影、照明、効果、美術、わき役などなど、まさに製作面のプロたちのこだわりを、その各個の人生の中での「必殺シリーズ」の位置をも踏まえて、本書は鮮烈に伝えてくれる。 面白いのは、監督の地位が、本書ではかなり低く扱われていることだ。実際にスタッフや出演者の大半が、「必殺シリーズ」は、入れ替わりが激しい監督のものではなく、常に独特の映像美で物語の個性を作った撮影の石原興、そして照明の中島利男の「作品」であったことを証言している。撮影所近くの喫茶店のおっちゃんもいい味だしている。また画面が暗いのはセットのぼろさを隠すため、という話も面白い。八〇 年代からのワンパターン化や最近のシリーズの変貌もわかる。 本書はなにより四〇〇頁近い膨大な情報量をもつテレビ映画を通じた同時代史なのである。(たなか・ひでとみ=経済学者・上武大学教授)★たかとり・みやこ=ライター。『映画秘宝』『昭和の謎99』『昭和の不思議101』などに執筆。編著に『別冊映画秘宝 90年代狂い咲きVシネマ地獄』、共著に『漫画+映画!』『完全版アナーキー日本映画史1959-2016』など。一九八〇年生。