少女の眼を通して「普通の人びと」のナチ化を描く 石井香江 / 同志社大学グローバル地域文化学部准教授・歴史社会学・近現代ドイツ史 週刊読書人2022年11月4日号 この夜を越えて 著 者:イルムガルト・コイン 出版社:左右社 ISBN13:978-4-86528-094-4 二〇一〇年から開催されているフランクフルト・アム・マインの本のフェスティバルがある。これまで二〇世紀のフランクフルトを舞台にした本が、毎年一冊選ばれている。市民たちが意見を交わし、一体感を得られるように、朗読会やコンサートの開催、映画の上映、本にゆかりの場所をめぐる機会も提供されるイヴェントである。『この夜を越えて』は本年、その一冊として選ばれたばかりであり、同じ年に本書を日本語で手軽に読めるようになったことは、大変幸運なことである。 イルムガルト・コイン(一九〇五-一九八二)は、戦間期ドイツの「新しい女」という現象、そこから生まれた文化、その現実と虚像に関心を持つ者にとっては、馴染み深い小説家の一人である。コインを一夜にして有名にした『人工シルクの女の子』『オフィスガールの憂鬱』の二作は日本でもすでに翻訳されている。戦間期、若い女性たちが「オフィスガール」等として働くことがより一般的になったが、コインの作品の主人公もこの新しいタイプの女性たちである。実は、コイン自身もタイピストとして働いた経験がある。女子ギムナジウムを卒業後、商業学校やベルリッツに通い、タイプの技術を身につけ、演劇学校にも通ったことのあるコインは「新しい女」そのものであった。 しかし、一九三三年にナチスが政権に就くと、コインの作品は押収され、非ドイツ的な「アスファルト文学」、つまり「退廃文学」であるという理由で焚書の対象となった。一九三六〜四〇年、コインはベルギー、オランダに亡命するが、この途上の一九三七年に本書は生まれている。帰国後のコインは両親のもとで戦争を生き延び、戦後は「未婚の母」となった。精神を病みながらも細々と創作活動を続ける中、一九七〇年代に朗読会と雑誌の記事で再発見される。コインの作品は再び脚光を浴びたが、その直後に帰らぬ人となる。戦間期のコインの華々しい活躍しか知らなかった評者は、本書を通して、彼女の波乱多き後半生と、その予兆のような世界観に触れることになった。本書の翻訳は、『髪を切ってベルリンを駆ける! ワイマール共和国のモダンガール』『「女の子」という運動』の著作もある、ドイツの「新しい女」研究の牽引役の一人、田丸理砂さんによるものだ。主人公ザナの発する一言、一挙手一投足が、評者の知るドイツの生意気な十代の女の子たちを彷彿とさせる。 本書の特徴であり魅力は、一九歳の主人公ザナが周囲の大人たちに向ける辛辣な観察眼であり、急速に進む社会のナチ化を「普通の人びと」を通して痛烈な風刺も交え、描き出している点だろう。例えば、ザナと、ナチ女性団の一員で、意地の悪い叔母アーデルハイトが、ヒトラーと詩人ヘルダーリンを敬愛する「上級官吏かつ教養人」である参事官と出会う場面がある。歓喜力行団が主催する「性病と民族の人種混淆の結果についての展覧会」という、お誂え向きの場所においてだ。参事官は性病持ちではなさそうで、関係を持っても安全そうな年若いザナに目をつけ、後日、安物の貝料理で口説こうとする。高尚な趣味を持ちながらも中身は下劣な参事官。その意地汚さが克明に描かれ、失笑を禁じ得ない。ザナは参事官とは対照的に表向きはさえないが人格者である従兄弟フランツに惹かれ、彼との結婚を真剣に考えるようになる。しかし叔母はザナをゲシュタポに密告し、息子から引き離そうとする。二人が結婚すれば、今までのように息子の稼ぎの大半を搾取できなくなるので、ザナが邪魔だったのだ。 フィクションのようだが、身近な人間を密告することはナチ期に実際にあった。本書に「ゲシュタポの部屋はまさしく巡礼地といったところだ。母親たちは嫁を訴え、娘たちは舅を、兄弟は姉妹を、姉妹は兄弟を、友だちはその友だちを、飲み屋の常連客はほかの常連客を、隣人はその隣人を」とあるように、隣人や友人、親族さえも密告してナチにすり寄る人びと、ライバルを蹴落とすために密告をする人びとの史実に基づく醜悪な実態が、滑稽に描かれる。 密告は相互の信頼を破壊し、人びとが独裁国家に対抗するために連帯する芽を根こそぎにする。旧東ドイツ時代にも、密告が大々的に行われていたことがシュタージ文書から明らかになっているように、これは遠い過去の話ではない。本書は、「明日は太陽が出ますように」と、共に亡命するザナとフランツが愛を確認する場面で終わる。個々人のかけがえのない自由を守るため、伴走する相手を見つけることの重要性が、今日一層増していることを感じさせるエンディングであった。(田丸理砂訳)(いしい・かえ=同志社大学グローバル地域文化学部准教授・歴史社会学・近現代ドイツ史)★イルムガルト・コイン(一九〇五-一九八二)=ドイツの作家。著書に『オフィスガールの憂鬱』『人工シルクの女の子』など。