校正者という現実検査員の熱く静かな奮闘 九螺ささら / 歌人 週刊読書人2022年11月4日号 文にあたる 著 者:牟田都子 出版社:亜紀書房 ISBN13:978-4-7505-1754-4 両親共に校正者で図書館員を経て出版社の校閲部に勤務してからフリーの校正者になったという著者の文は、豊穣で端正で正確さというものに殉ずる人のもので、読んでいるとまるで純水を飲んでいるようで、浄化作用すら感じた。これは何かに似ていると思ったら、アナウンサーの加賀美幸子さんの朗読を聞いている感じだ。加賀美さんはラジオで、自分は出さないんですという主旨のことを言っていた。ただ伝えるだけなのだと。でも声というのは人そのものだから、声で十分人が出てしまうのだと。この本でも、牟田さんは校正について熱く静かに語っている。しかしそれで、牟田さんそのものがたっぷり表現されている。 自分以外の何かについて書くということは、自分を表現することなのだ。自分を表現するということは、自分について書くことではないのだ。自分が自分を書こうとすると、自家中毒になるのだろう。人は、自分という自己同一性を確認し続けないと狂うし、自分という自己同一性を確認し続けることが人生という時間の連続なのだろう。けれど、例えば「鏡で顔を見る」という自分という自己同一性の確認は、鏡像を見ているのであって実は自分で自分を見ている訳ではない。しかし物理的に自己の外部を見て自分を確認する以外に自分という自己同一性の確認は出来ない。そのように、人は自分の心を確認するために、狂わないために、自分の外に己の言霊の連なり、つまり心そのものである文というものを外在化物質化させ、自分の外にある誰かの言霊の連なり、つまり誰かの心そのものである文を読んでそこに自己投影をしているのではないだろうか。 文というものは、皆が共有している事実を土台にして踏み、皆が使用している言葉を材料にしている。そしてその土台の事実の裏付け、材料の言葉の強度や適不適をチェックしているのが校正者だ。ファクトチェックと呼ばれる事実の裏付け作業についての記述を読んでいると、事実とは一体全体何なんだという、興奮のようなもやもやが湧いてくる。特に「小説のリアリティ」の章を読むと、「フィクションにとってのリアリティ」という、背中合わせの真逆のようなフレーズが浮かんできて陶酔を覚える。リアリティから産まれた真逆の性質のフィクションに、リアリティが求められるとは一体どういうことなのか、と。この章では、村上春樹の『海辺のカフカ』のことが出てくる。村上は読者の「四国にすかいらーくやデニーズなんてあったっけ?」「さらに付け加えるならセブンイレブンもありません」というメールの反応に応えて、2刷から一部「直した」が、「何もかも直しちゃうということではありません」と、どう考えても「あのフライド・チキンの」「カーネル・サンダース」としか思えないものを「カーネル・サンダーズ」のままにしているという。この判断は、ワクワクするほど興味深い。牟田さんはここで、「すべての小説が写真と見紛うばかりの細密画のように、現実に即して書かれていなければならないとも思いません。もちろんそうした小説があり、それを支持する読者がいる一方で、どこまでが現実でどこからが想像なのか判然としない小説があり、それを楽しむ読者もいていいのではないでしょうか。」と書いている。このように、小説というものを理解し、本というものに無償の愛を注ぐ人が校正者として存在していることに、一読者として安心のような信頼のような幸福を感ずる。 きっと事実とは、物理現象を認知した人類脳のアウトプット表現の共有なのだろうし、正しさとは、その個々の脳の既成情報に対する合致のようなものなのだろう。そして本は、脳が見ている幻想かもしれないこの世に対する知性の楔だ。その楔の強度を、つまり現実が現実である裏付けを日々黙々と行っているのが、校正者という現実検査員たちなのだ。(くら・ささら=歌人)★むた・さとこ=校正者。図書館員を経て出版社の校閲部に勤務。二〇一八年より個人で書籍・雑誌の校正を行う。共著に『あんぱん ジャムパン クリームパン 女三人モヤモヤ日記』『本を贈る』など。一九七七年生。