文学をめぐる模索と試行の行く末を見届ける 森元庸介 / 東京大学大学院総合文化研究科准教授・表象文化論 週刊読書人2022年11月4日号 狂気・言語・文学 著 者:ミシェル・フーコー 出版社:法政大学出版局 ISBN13:978-4-588-01148-1 講演録、準備ノート、またメモといえそうなものまで、およそ六〇年代、文学をめぐるフーコーの未公刊テクストを収めた本書は、意地悪なひとなら断簡零墨の寄せ集めというかもしれないが、とりわけ門外漢には、気負わず拾い読みする楽しみが、こうした拾遺集の恩恵である。 といって、一書としての構成が不在なのではむろんない。編者たちが意図を示すのに控えめなのは、すでにタイトルが十分に明示的と考えてのことだろう。実際、「狂気」と「文学」との親和性が「言語」を蝶番として繰り返し主題となる。安定した共通のコードに即した日常言語の存在をともあれ仮定するなら、対して、狂気、少なくともフーコーが焦点化する──また、かれによれば、西欧が固有のしかたで捉えてきた──それは、同じコードにしたがうようでありつつ、どうしても異なる何かを述べていると受け取られるほかない、そのかぎりで異様な言語使用のことである。文学もまた、それと通じる異様なありようによって徴しづけられる──同じコードにしたがいつつ、だが、自身が作り出されるなかで自身に固有のコードを現出させもする、結局のところ日常言語とはどうしても区別されるほかない言語実践。だから、文学にとって狂気が特権的なトポスとなるのは自然であり、古典期の文学──とはまた、およそのところ現に文学と呼び慣わされているものの始まり──は、セルバンテス『ドン・キホーテ』からバロック演劇を挟んでディドロ『ラモーの甥』まで、狂気を繰り返し取り込み、さらには擬態してきた。ただ、その後には明らかな断絶が到来し、サドをひとつの転回点としつつ、二〇世紀のアルトー、ルーセルらとともに、狂気は、文学にとって、特別なのではあれ、ともかく取捨選択しうるようなモードのひとつであることをやめ、その「真理」それ自体を照らし出すものとなる。 前半部から再構成される以上の流れは、しかし、参照される主だった固有名を含め、フーコーに親しむ読者には、『狂気の歴史』に端を発する展開として相当に既知のものであるかもしれない。本書がそこに新しい印象を加えるとすれば、文学に言語作用としての種差を与え、日常言語から区別するものをポジティヴに標定し、同時に、文学作品の有効な分析法を提示しようと試みる、一連の模索の跡が録されているからだ。本書中もっともまとまったパートである「構造主義と文学分析」(一九六七年、チュニスでの講演)の前後に配された関連ドキュメントは、一方で、言語学や文学批評への参照とともに、方法の問題に悩み抜く若い学徒を彷彿とさせつつ、他方で、実際に提案されたコンセプトの扱いづらさ(!)によって、読者を心地よく惑わせる。 たとえば「フィクション」について。ここでそれは、虚構を形成する作業ではなく、ひとつの作品のうちでどれだけのことを言い、反対にどれだけのことを言わずに済ませるのか、その両者の配分をめぐる「選別」のことである。選別が必要なのはなぜかと問えば、今度は「言語外的なもの」というタームが浮上してくる。作品に「すべてを言う」ことなど、いずれできはしない。だが、作品はそもそも「すべてを言う」ことなしに成り立つ何かである。むしろ、言われぬもの、すなわち「言語外的なもの」こそが、現に言われてあるもの(作品を構成するすべての部分)の可読性を保証している。だが、その言われぬもの自体──少し考えれば当然ながら──現に言われたものがなければそもそも想定されるべくもないのであり、つまり、言語外的なものを生み出しているのは言語そのものである。言われたものの表面を踏み割ることなく優雅に弧を描くような一連の定義を経て、では、いったい何が可能となるのか。それは、たとえばフローベール『感情教育』とロブ゠グリエ『迷路』のあいだで、フィクション/言語外的なものの作用は「同じでない」と確認することである……。 これに輪を加えて捉えどころがないのは、「レクシス」だろう。ストア派論理学から自由に借用されたこの語は、語る主体が自身による語りの結果として割り当てを受ける「位置」、またその「移動」の「総体」、さらにいえば、その可変性、可動性を指すとされる。語り手や焦点人物をめぐるナラトロジー的なアプローチとの親和性が予期されるが、フーコーは、意外にも、小説こそがレクシスを減少させる(つまり、「語る主体」がそれだけ固定される)形式であること、むしろ演劇と詩においてそれが増大すること(だが、たとえば劇中劇という仕掛けはレクシスを減少させること)などを指摘したのち(「〔言語外的なものと文学〕」)……、ほかならぬ小説(とりわけ、またしても『感情教育』)におけるレクシスの分析に没頭するかのようなのである(「文学分析と構造主義」)。 高速で連続する切り返しを追い切れていないことを白状しつつ、フィクションもレクシスも、可変性、可動性と深く相関する、という以上に畢竟、可変性、可動性そのものの謂のようであることを強調しよう──とくに後者については、それが増大すればするほど、語る主体の位置はいわば不明瞭化する、というわけなのだから。最終パートで分析の試みの対象となったバルザック『絶対の探求』をどこかしら想起させるように、探求が進むにつれて探求されるものの輪郭が曖昧に拡散してゆき、「文学分析と構造主義」の末尾ではついに次のようにいわれる。「──いかなる文法的・言語学的分析も、文学が何であるかを言うには至らない〔……〕。あらゆる行為遂行的な行為と同様、文学はありふれた日常の言語を用いているのだ」。本書の実質的な結語といえるかもしれない言明は、しかし、一連の経緯の不毛を意味するのでなく、七〇年代以降のフーコーにおいて後景へ退くとされる文学への関心が別のしかたで引き継がれたことを確認させるとともに、少なくとも「文学が何であるかを言う」に至らぬと言いうるに足るほどの模索と試行がたしかに為された、そのことの証言となっている。(阿部崇・福田美雪訳)(もりもと・ようすけ=東京大学大学院総合文化研究科准教授・表象文化論)★ミシェル・フーコー(一九二六-一九八四)=哲学者・思想史家。著書に『狂気の歴史』『監獄の誕生』『性の歴史』など。