戦争の時代と島の姿を今日の市民生活とともに描く 岡本勝人 / 詩人・文芸評論家 週刊読書人2022年11月11日号 水平線 著 者:滝口悠生 出版社:新潮社 ISBN13:978-4-10-335314-0 太平洋の全域の地図を広げると、日本列島の南には、日本海溝、伊豆・小笠原海溝、マリアナ海溝とつづいている。そこにあるのは、小笠原諸島だ。戦火を受けて占領後返還となった硫黄島は、父島、母島の南にある。東京から片道一三〇〇キロメートルの距離である。 滝口悠生が、自らの生のルーツを確認するように、都市の文学から東京の「島」の文学へと注意のカーソルをむけた。 未だ独身の兄妹である。両親が離婚したために、苗字が違う。パン屋に勤める妹・三森来未は、自衛隊の飛行機で訪問墓参事業に参加し、硫黄島に行ったことがあった。或る日、妹の元に硫黄島に軍属として残った三森忍から携帯が鳴る。出版社を辞めた兄・横多平には、祖母の妹・八木皆子からメールが届く。そしていま兄は、彼女のいる父島へと、おがさわら丸に乗ったのだ。過去と記憶を繫ぐ旅がはじまる。 硫黄島は、一九四四年六月、空襲が激しくなると、強制的に全島疎開になった。擂鉢山と浜辺の島だ。クリント・イーストウッド監督の作品『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』の二本の映画では、日米の立場から戦争シーンが描かれた。守備隊の日本兵と軍属は玉砕だった。小説では、指を潰して徴兵の難を免れた祖父とその親族は、弟たち三人の軍属を島に残して、父島から横須賀を経ると、南伊豆の親戚の元に落ち着いた。 時代は、二〇二〇年の日本である。東京では、コロナ感染やオリンピックの現況を伝えていた。八〇年にわたる東京と父島と硫黄島の三点の時空間が、行き交うように語られる。登場人物の会話は、平易に地の文章に溶け込んでいる。丁寧な語りのなかに、島の過去と現在が、登場人物の描写とともに語られるのだ。文体は、ナチュラルで、軽い。時には、現実の物理法則を越境するほど、想像力は詩的に水平線の彼方へと延長する。それでも読者は、東京の生活の現在や父島と硫黄島の庶民の歴史と風景に、自分との一体感を感ずる。戦争の時代と島の姿を今日の市民生活とともに描く作家の力量には、驚かざるを得ない。滝口悠生は、生活実感のある眼のいい作家だ。 水平線こそ、東京の端にある生活と硫黄島や父島の端にある生活との両者の転換と融和を誘うものである。島の実情と登場人物の声と姿が詳細に書き込まれている。平易に移入された豊饒な筆力が、無記の島をリアルに復元した。小説化を司る作者と主人公には、文芸批評に通底する対話があり、能動的な出会いがある。父島で女性に出会う兄のメール着信と東京の釣堀で同級生と語る妹の他者からの携帯の声を転回点とする登場人物たちは、全てがナチュラルに生きたポリフォニーを奏で、転移は詩的に循環する。だから、小説の主人公は誰かと問えば、兄妹の語りを軸とするが、登場人物全員の多声である。六〇〇ページに及ぶ小説空間は、張り巡らされた伏線によって、物語を繫ぐ。時間が相互に融通すると、全体像が浮きぼりになった。フィクションの美学とは、内的な声と声の対話にある。作者の想像力は、揺らぎの多様性と投影された包括性の全体小説を取り戻すかのようだ。 この小説が東京から離れた島の文学を復元するとき、それは脱中心の辺境文学を超えて、かつて生きた親族の声を取り戻すことに成功している。その声は、島への旅の風景から発生し、島の戦前からの歴史的事実を包摂する。現実感のある声を聞くことができるのは、作者の親族の歴史と遠いところで重層しているからだろう。先祖の慰霊碑が、島影のなかの神社や小学校や山や浜辺とともに見える。小説の流れる時間は、発見された島の足跡や防空壕やトンネルの痕跡である。確かな息遣いと手応えをもって描写する旅の時間がここにある。 島と島を超える水平線がある。南伊豆の民宿「水平線」から母が見た水平線も、兄が見た船の上や父島からの、あるいは妹が見た硫黄島や沖縄からの水平線も、世界がひとつに結ばれる想像力の中にある。最後には、沖縄からの夜釣りの船と父島からの魚船の上で、登場人物たちが出会うのだ。勾玉のような父島から三〇〇キロ先のパイプのような硫黄島にむかう船の上で、ル、ル、ルの大団円を繰りひろげる。言語が交通する作者は、今までだれも書き得なかった東京の「島」を布地とした分厚い織物の地図を作成したのだ。 過去と記憶から作者自身と人間そのものを取り戻すことによって、現在の私たちとは何か、現代社会とは何かを伝える。境界がなくなることで繫がる物語は、時空の境界線を越えた現代小説の傑作である。これからの時代は、硫黄島や父島と滝口悠生の名がひとつの固有名となる水平線にある。(おかもと・かつひと=詩人・文芸評論家)★たきぐち・ゆうしょう=作家。東京都八丈島で生まれ埼玉県で育つ。「楽器」で第四三回新潮新人賞、『愛と人生』で第三七回野間文芸新人賞、「死んでいない者」で第一五四回芥川賞を受賞。著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『高架線』など。一九八二年生。